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京極堂の細君、中禅寺千鶴子の魅力。 このエントリーをはてなブックマークに追加

以前、京極堂・中禅寺秋彦と千鶴子夫婦に思うと云う記事を書きました。
誰か叙述トリックを駆使して京極堂と千鶴子の出会いを書かねえかなあ、という愚痴なんですがw
京極夏彦の代名詞である百鬼夜行シリーズ(京極堂シリーズ)の1番人気と云えば無論、京極堂です。異論は認める。
百鬼夜行シリーズ(京極堂シリーズ)は基本的に関口巽一人称で記され、京極堂の心情はあくまで想像の範囲として表現されます。それ故にキャラとしての深みや味が認められると思うのですが、京極堂に限らず脇役も非常に魅力的な作品でもあります。

さて、その京極堂に勝るとも劣らず謎にあふれ魅力的な登場人物(キャラクタ)に、京極堂の細君、中禅寺千鶴子が居ます。

中禅寺千鶴子の謎と云えば、大まかに以下があります。
  1. 京極堂こと中禅寺秋彦との馴れ初め
  2. 京極堂の仕事、憑物落としを了解しているのか
僕個人は京極堂・中禅寺秋彦と千鶴子夫婦に思うでもう少し掘り下げて書きたかった事に、京極堂が千鶴子の憑物を落とした結果、好意に結びついたのか。
しかし、それだと京極堂が仕事上面倒を見るだけであって愛情には結びつかないのでは、と。
それとも、千鶴子は憑物落としの対象ではなく、無関係あるいは間接的に目の当たりにした、だからこそ京極堂の人間性に惹かれ、また、憑物とは無関係だからこそ京極堂も思想や仕事を持ち出さずに千鶴子に惹かれたのでは。
など妄想が尽きません。

以下に中禅寺夫婦の心情を察するヒントとなりえる本文を引用します。[以下ネタバレ注意]
魍魎の匣 (講談社ノベルス)170頁
「千鶴さん、今日本屋の方は休みのようだが、京極堂はいるのかい?」
「ええ、仏頂面の石地蔵ならひとり座敷にいます」
「座敷に?」
↑憎まれ口は親しさの代名詞。京極堂との関係とともに、関口にこういうことを言える、身内以外への親しさも表れています。
魍魎の匣 (講談社ノベルス)180頁
「君達兄妹は喧嘩ばかりしているようで、情報は筒抜けなんだな。油断のならぬ兄妹だ」
「油断てえのは何だい。何で僕等兄妹が君に警戒されなきゃいかんのだ」
京極堂が困ったような顔で云う。その時すっと襖が開いて、細君が何やら載せた盆を持って入って来た。細君は私と鳥口に再度挨拶をすると、お茶と水羊羹を私達の前に丁寧並べながら、
「まあ、この人がまたつまらないことをしたのでしょう。まったく仕様がない。鳥口さん、どうも申し訳ありません。この人はこう云う、変な人なんですよ。敦子はこの人に似ずにまともですから、これに懲りずに今後も宜しくお願いしますね」
↑後述する塗仏の宴で京極堂の妹、敦子と千鶴子の関係が少し記されるのですが、それにしても、義姉妹であるにも関わらず、こうして呼び捨てる親しさに頬が緩んでしまいました。
塗仏の宴 宴の始末 (講談社ノベルス)483頁
千鶴子――中禅寺は自が妻には視線をくれず、右手を顎にやったまま床の間を方を向いた。
「雪絵さんと一緒に暫く京都に行ってはくれないだろうか――」
慥か京都には細君の実家があるのだ。細君はすっと立ち、猫も連れて行きます――と云った。
↑こここそ、僕が千鶴子と京極堂の夫婦間に興味を持った契機である描写です。
と言うのも、上記の引用から京極堂の思想と千鶴子の認識が必ずしも一致していない、と感じたからです。
先の引用で気になった点が2つあります。
  1. 引用文から夫である京極堂の仕事を具体的には知らなくとも抽象的に役割や立場や能力を了解している。
  2. 中禅寺秋彦、千鶴子夫妻は「石榴(ざくろ)」という猫を飼っているが、京極堂の言葉(名前)に対する思想に反して、石榴(ざくろ)を名前ではなくと言っている。
石榴(ざくろ)と云う名前はシリーズ4作目にあたる鉄鼠の檻 (講談社ノベルス)で初めて明かされます。引用して気付きましたが、この時すでに名前ではなくと言っていますね。
鉄鼠の檻 (講談社ノベルス)97頁
「そう云えば京極堂。君の家の、その猫はどうしたんだ? 置き去りか」
「ああ、石榴か」
「ざくろ?」
「名前だ。欠伸すると石榴みたいな顔になるんだ。だからそう云う名にしたんだよ。そうだな、明日か明後日か、いずれ餓死することだろうな。あの猫は家育ちで餌を獲ることを知らない。鼠にも負ける。家からは出られないし、檻の中で餌を与える者がいないようなものだからね。餓死だ」
「そんな、君」
「大丈夫ですよ。ちゃんと餌をあげて貰えるよう、お隣に頼んであるんですから。この人は何かと云うと変なこと云いますが、猫が死んだりしたら一番に悲しむんですから」
細君は大きな目で陰険をちらりと見て、茶化すようにそう云った。それから妻の方を向いて、賢妻達は二人で大いに笑った。
一方駄目な亭主どもは片や本を読み始め、片や車窓を眺めた。
↑ここに夫婦のつうかあが垣間見え、もうこれだけで大いに萌えるのですが、それに反して、ここまで夫の情を理解しておきながら、と呼んだり京極堂の言葉(思想)を千鶴子は流している節があるのです。古風な感じでいて、現代的な突っ込み積極性も持っている。不思議な女性です。

ところでこの夫婦、子供がいません(関口巽・雪絵夫妻も)。
僕個人がこの夫婦に惹かれた理由のひとつですが、子供=幸福と云う図式が娯楽にはあります。けれど、この夫婦は互いに芯があるように描かれているにも関わらず子供がいません。
京極堂の次代への責任など小難しい思想のもと子供がいない、持たないのも考えられますが、僕は千鶴子は子供が産めない身体なのではないか、と考えました。
京極夏彦は、一般的に良いとされる女性的魅力と、それに沿わない個性的思想の軋轢四谷怪談を題材にした嗤う伊右衛門で幾らか表現しましたが、それに通じる軋轢が千鶴子にもあったのではないか。
そして、それが何らかの理由で子供が産めない身体であり、女性として個人として云々、という中、京極堂こと中禅寺秋彦はそれに傷つくのは人情なれど、決して責めさいなまれることではない、と千鶴子の哀しみと個性を認め、千鶴子もまた憑物落とし的なやりとりから中禅寺秋彦の傷(思い?)知り夫婦となった、と抽象的な妄想はふくらむのですが、如何でしょうw
京極夏彦でも同人でも良いから誰か書いて!!w

未分類 [ 2008/11/22 04:51 ]