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2013年の最悪な映画は「レ・ミゼラブル」 このエントリーをはてなブックマークに追加

※ネタバレ
※誤字脱字は徐徐に修正

今年、あと何本の映画を見るかわからないが、これだけは言える。
2013年の最悪な映画はレミゼラブル
最初の5分で帰りたくなった。
映像は凄いし、力仕事をしながら歌う囚人(奴隷)は、まあミュージカルだし映画としても作品としてもまず圧倒的なつかみが必要だろうし、と思ったのだけどRussel Croweが「私の名前は…」と歌いだしたところで、ああもう自分にはこの映画は絶対に無理だわ、と悟った。
少女漫画よろしく「私の名前は…」なんて言い出した挙げ句にそのひとことすら仰々しく歌い上げるのか…と。
とにかく初デートの阿良々木暦みたいに早く帰りたかった。
へたしたら今年最高の長文かもしれないので、結論だけ書いとく。映画の利点、美術や衣装やCG合成を駆使しながらその中で舞台と同じ演出をして舞台では見られない構図ばかりを撮影した結果、ミュージカルの違和感だけを強調し映画の前提と魅力を見失った作品である。

ミュージカルだから悪いのではない

好きではない分野であるのはたしかだが、ナイトメアー・ビフォア・クリスマスはDVDもゲームも持ってるし、8人の女たちには最初違和感があったけど1/4くらい見た時点でなれちゃったし、キャンディードのOvertureが大好きでCD持ってるし、2004年にはCabaretの来日を見た後にCD買ったし、RentSeasons Of Loveが大好きだし、ロシュフォールの恋人たちなんて捨て曲が1つも無い神懸かった作品だと思っている。
しかし、この映画レミゼラブルはミュージカルうんぬんというより、いやミュージカルだからこそ駄目だったと思うのだけど、ミュージカルという分野の問題ではなく、映画という媒体にミュージカルの文法を徹底しても破綻するだけ、ミュージカル(舞台)と映画の食い合わせの悪さを証明しただけのように思う。

ハードボイルド作品

この作品に必要だったのは「抑制」ではなかろうか。
そしてそれはミュージカルとは食い合わせが悪いように思う。
とにかく諄い。
化石な慣用句「感動の押し売り」にふさわしい作品。
あんなにずっと派手な音楽と歌を連続させるんじゃなく、事実を作品にしたら絶対に嘘くさくなるのを、映像として奇麗でありながら主人公の心情だけは抑えることによって説得力を獲得したマネーボールのような演出であれば良かったのに。
マネーボールはブラピが主演でいかにも作り物めいた印象なのに、音楽をおさえて現実感を強調し、陰影や自然音を駆使した演出で実に素晴らしい現実と虚構の両立を果たしたけれど、ヴァルジャンに必要だったのはそれじゃないかと思う。
ファンティーヌやコゼットがミュージカル的な要素を受けて派手に歌いまわり、ヴァルジャン個人は頭と中と結の3回だけ頑張って歌って、合唱以外は何も言わず静かに、神の視点である観客にはわかってるけど明文化されていなヴァルジャンの本意、つまりイーストウッド的なハードボイルド演出であるべきだった
ヴァルジャンは3回歌うだけでいい、というのは、ソーシャル・ネットワークのテーマ曲がその回数で、静かで簡単な曲でありながら印象深く作品に必須な要素だったから。
当初、ソーシャル・ネットワークの脚本家aaron sorkinはポップスを指定していた。
しかし監督のDavid Fincherは月並みの青春物語にしたくないと、テーマ曲のリテイクを重ね、Hand Covers Bruiseに至った、とメイキングで明かされている。
この曲は作中に3回流れており、まくしたてずそれぞれふさわしい間隔で場面に意味を持たせている。
また音響も場面にあわせてそれぞれにReverbのかけぐいなどで音を明瞭あるいは曖昧にしている。
レミゼラブルはミュージカルであるが故に、テーマ曲(one day moreのメロディ)が歌,インストを問わず常に流れており、たしかに印象に残るが曲そのものの主張が強い上に絶え間ないので折角の名曲が耳障りでしょうがなかった。
もっとインストを増やして、ヴァルジャンやコゼットに歌わせるのではなく、お互い黙ってるけどStringsの静かで遅い白玉でうっすらとテーマ曲を流す、など映画音楽として当然の演出をすれば、それだけで素晴らしい情景になったはずだ。
音楽も演出も抑えて抑えて我慢すればこそwho am I, who am I, Jean Valjean!! キター(゜∀゜)ー!!と感動できるのだろうに。

one day moreの利鈍について

民衆が道行く貴族らを囲って歌いだし一丸となる場面。
あれはミュージカルに限らず、ある民族や土地を象徴する歌が一体感を誘い、またその状況になって初めて歌詞の意味に気づく、といった演出はあるし、実に感動的な場面だ(個人的にはまっさきに思いつくのはエースコンバット5)。
しかし、その数秒前にone day moreが一体感を歌い上げて表現しているので、民衆の歌がもろかぶりで残念な結果になっている。
one day moreは間違いなくレミゼラブルを象徴する歌、テーマ曲だと思うし、舞台も小説も知らない自分すらその場面が重要だとわかる歌と演出だったし、立場も場所も思惑も違う人人が結果はともかく同じ1点を目指している、歌っている、という作品のピークだからこそ、もうそこで一体感を示したのに今度は同じ事を規模を狭めて連続して見せる、というのにうんざりした。
よほど人海戦術が売りの作品でもない限り、圧倒的な集団の描写は作中1,2回あればいい。というか見せ場なのだから1,2回しか無いのが当然。レミゼラブルも視覚的にはたしかにそうなのだけど、ミュージカル独特のその場にいる全員合唱があり視覚では数人でも聴覚がそれを超える数を感じているので、折角の見せ場で「数の暴力」を感じにくくなっている。
ホラー映画の吃驚箱よろしく、良いのは最初の1,2回だけでそれが事ある事に繰り返されたら怖くなくなる、というのと同じ。
one day more自体は何も悪くはないが、映像がバストショット(以下BS)ばかりで全然立場や場所の違いが感じられなかった。違う場所や立場でありながら同じ人間という演出意図だったのだろうか?自分にはただ変化の無い映像にすぎなかった。
また主要キャラで歌わない人がいても良かったのではないか。
例えばヴァルジャンやコゼットが歌ってるけど映像は歩いてるジャヴェールだった時にジャヴェールが歌ってるのに凄い違和感があった。ああいう状況下ではジャヴェールは無言で歩いてこその威厳だし音声は人物A、映像は人物B、またはその逆という演出のほうが同じものを共有しながら異なる、というものを強調できたし自然だったのではないか。
ミュージカルとしては全員で歌うってのは当然なのだけれどね…。

映画として駄目な映像と編集

撮影は大変だったと思う。音楽が前提だから編集後もある程度頭にないと成り立たない構成だし、ここまでの体裁に整えたのは1流の仕事だと思う。
しかし、体裁を整えただけで終わったとも言える。
というか映画としてやっちゃいけない基本的な事をやりまくってた印象。
まずBSが多すぎる(なお厳密には違うがこの記事においてはBSとアップショットは一括りにして扱う)。
作品の最後に作中で死んだ人が過去と未来、幸せと悲しみをまとめて歌い上げるのだけど、映像構成は以下の3種類、ヴァルジャン、ファンティーヌ、国民。
んで具体的なカット割なのだけど、1.ヴァルジャンのBS、2.ファンティーヌのBS、3.脇役のBS、4.集団の全体の4種類であり、カットの回数は複数だけど見られるカット自体は変わらない。そこで気になったのはヴァルジャンとファンティーヌのカット。この2人の結びつきを示す両者の2ショット。BSとFS(フルショット,全身)が無いのだ。
あの世だから幻想を示す意図があったからか、それとも集団の全体図で小さく2人が見えるから省いたのかわからないが、凄い違和感だった。
またミュージカルの性質上、あおいだりうつむいたり歩いたりかがんだり1度に上下左右の連続した動きが激しいせいか、カメラをステディカムじゃなく肩でかつぐタイプを選んだようで、少なくとも観客の見る編集された映像においてカメラが動く必要の無いカットすらカメラが揺れていて気持ち悪かった。
今更想定線(イマジナリーライン)でうんぬんなんて言うだけ恥ずかしいが、重要な場面でやっちゃってるわかりやすい例があるのでそこを書く。
コゼットとマリユスが2人で愛を歌いあって後ろでヴァルジャンが見守りながら歌っている場面。
言葉よりも画像のほうがわかりやすいので以下に4枚の画像を。赤い矢印は女の目線、青は男の目線。

1.コゼットとマリユスが向かい合っている。

カメラはコゼットを前から見てる

2.マリユスの後ろにヴァルジャンがいる。父親と恋人、それぞれに立場は違うが同じ女性を愛している、またコゼットも男という点で同じように愛している、を示すカット。

カメラはコゼットを後ろから見てる

3.コゼットだけのBS

カメラはコゼットを前から見てる。ここまでは想定線(イマジナリーライン)をたもっている。

4.ヴァルジャンだけのBS。

カメラはヴァルジャンを前から見てる。これが問題で、コゼットをずっと画面の右にとらえてコゼットの前からだろうが後ろからだろうが男はまとめて左に位置しているのに、この「4」でいきなりヴァルジャンがコゼットとかぶった画面右側に現れる。2人は一心同体って演出意図なのかもしれないが、そんなのは作品を最初から最後まで見れば台詞や雰囲気でわかるものだしそれが文学だろう。これは単純にずっと被写体が画面右に固まった凄く気持ち悪い、情緒面で重要である場面であるのに気持ち悪い映像になってる。
ソーシャル・ネットワークでは、ある2人が携帯電話で会話する場面がある。互いに違う場所にいるので2人のカットは人物以外にも背景すら変わる連続しない映像だが、携帯電話を持つ2人はそれぞれ画面の左右にわかれて視覚的にわかりやすいようになっている。しかも、携帯を持ちながら画面を左右に歩いて移動するのだが、人物Aが左から右に歩くと、次の人物Bのカットでは人物Bが右から左に寝転がるなりして動いて、それぞれが左右で同じ場所にかぶらないよう視覚的な整合性をたもっている演出がなされている。
本来、こういった点はよほど穿って見ないと気づかないか、どうでもよかったりする。しかしレミゼラブルに関してはそういう事がいちいち気になる、見終わった後の指摘じゃなく、リアルタイムで違和感があるのだ。

映画と舞台の違い

映画と舞台の違いの1つだが、舞台は場面転換などを含めて演出とは別の不本意な沈黙が発生する。そのために音楽があり、観客もそういった手順と様式を認識してるから舞台の過剰演出に抵抗が無い。そもそも声をはらないと観客には届かないし。
しかし映画は違う。
映画は音声も映像も思いのまま、幾らでも大きく小さく、長く短く出来る。
それを踏まえた演出が映画の魅力なのだが、幾ら舞台では見えないからといって人物を大きくうつしても、特に映画館の大画面でひたすら人の顔ばかり見せられても気持ち悪いだけだ。
8年後や9年後に時間を飛ばす演出は実に映画らしいよく動くカメラで大きく小さく明るく暗くリアルタイムの変化が格好よかった。曲も格好よかったし。
しかし、その映像の良さと本編の良さが全く結びついていない。言うなればアイキャッチと次回予告だけ面白くて本編が駄目なアニメみたいな、「つなぎ」だけ映画していてどうするんだよと。

映画だからこその違和感

舞台の映像ソフト化の場合、同じ構図でありながら映画のほうがしょぼく見えたりする。
先に書いた通り、映画は自由自在、舞台は演出限界が明確だからだ。
だから、例えば舞台の映像ソフト化したものと同じ構図で映画を撮ると、映画のほうがしょぼく見えたりする。
舞台は被写体である人物以外がどうでもいい、日本の漫画によくある背景が白身みたいなもので被写体だけが実体である(だから舞台装置自体が売りの1つになる)。映画は被写体を引き立てるための背景が意識に入らなくてもしっかりと作られていなければならない疑似体験に近い。
舞台は被写体の人物が後ろを向いていても「観客の視点と視野は固定」だから「被写体を後ろから見ている」という意識はなく「前から見てる被写体が後ろを向いている」という認識だ。
映画は違う。明確に示さない限り「被写体を後ろから見ている」という認識になる。
そういった無意識の前提があるから、舞台の映像はしょぼく見えない。音楽番組やライブなんてまさにそれで、マイク前に棒立ちでもカメラがズームインアウトやドリーインアウトするだけで凄く格好よく見える。
しかし映画はそんなの前提で更に「それらしく見える手間」が必要なのだ。美術や衣装やetc。
つまりこの映画は映画の利点、美術や衣装やCG合成を駆使しながら舞台と同じ事をやって舞台の視点では見られない構図ばかりを撮影した結果、映画の前提と魅力を見失ったのだ。
他にも、無駄に被写体を斜めにした構図の多用。
これは恐らく被写体の心情表現、などではなく撮影現場のミュージカル現場再現の演出と美術の都合で撮影できるカメラの位置(構図)が限定された結果をごまかすためじゃないかと思っている。
昔、仮面ライダーZOで実際に爆発させた中をバイクが走る場面があって、そこが見せ場なのだけど、爆発した破片が仮面ライダーとバイクにひっかかって絵的にしまらない面白い場面になってしまい、あれは恐らく爆発は金がかかるしリテイク出来ないのでしょうがなく1テイク採用だったのだと思うのだけど、レミゼラブルもそういう大人の事情を伺わせる映像が盛りだくさんだった。
また、これは単純に失敗だと思っている、被写体が微妙に中心からずれた構図。
映画は舞台と違って視野が狭い反面、奥行きを感じやすい利点がある。レミゼラブルでもカメラの奥から手前、手前から奥に被写体が動く演出が多いが、明らかに映像を長方形として撮影してるのに、手持ちカメラのブレとドリーインアウト、また役者の勢いはあるけどわりとざっくりした移動の振幅から、X,Y軸の交差点(中心点)を意識して撮られているにも関わらず、そこからずれた映像になってるのでこれまた気持ち悪い。
Stanley KubrickやChristopher Nolanほど意図的でなくてもいいから、もう少し何とかならなかったのだろうか。

カメラの限界

舞台だと5人が横に並んで同じ動きをするだけで娯楽として面白い違和感を楽しめるが、映像だと5人を10人、10人を100人にしても「狭く小さく」感じてしまう。F1中継なんてわかりやすい例で、100~300km/hで走ってる車が凄く遅く見える。
そのせいでファンティーヌの働く工場や、コゼットを引き取ってたおっさんおばさんの乱痴気など、凄くせせこましく感じた。これは舞台ミュージカルの基本となる演出なだけにどういった状況が想像できるからこそ、舞台と映画の利点を損なってただつまらない映像になってた印象。

ファンティーヌの悲劇性と奇麗な汚さ

ヒロインの悲劇性だけじゃなく舞台装置と言う意味においてもドッグヴィルくらい踏み込んでほしかった。
ファンティーヌがクビになり娘コゼットのために堕落していく様は、時代と個人の不幸を示す大事な場面であるし、作品の土台の1つである。
しかし、全然酷く見えない、汚く見えない。
今の技術や環境を素晴らしいと認識した上で昔は良かったと思う点がそれ。
現在の作品は「汚さ」をちゃんと表現できていない。
説得力ある汚さをもたせる労力を省いている。
実は創作において「奇麗」よりも「汚い」ほうが難しいということ。
先日、フィルムとデジタルの利鈍を扱ったドキュメント映画サイド・バイ・サイドを見た時に、より明確になったが、かつてはそれしかなかったからそれでやってきただけのアナログな要素が、実は技術が飛躍した現在でも再現できない「指向」なのだということ。
居直ってフロム・ヘルのように過去の要素を女性的な装飾性をもって構築する手もあるが、レミゼラブルは題名の通りにその時代の悲しさや汚さを表現しなければ成り立たないのに、とにかく奇麗なのだ。
地味な作品だからこそちょっとしたかすり傷すら観客に痛みを想起させるリミット(BURIED)の説得力もなく、かといってフロム・ヘルのように幻想的に仕上げてるわけでもない。
リミット(BURIED)は1人の男が狭い密室で悪戦苦闘する、という娯楽になりえない状況を、カメラのレンズと地味に異なる複数の美術を用いて娯楽作品としての視覚効果、映像の説得力を獲得している。こういった作品には音楽は邪魔になる筈なのに、音楽は現実感を損なうどころかとことん映画を盛り上げている。
レミゼラブルは反対に予算も多く色んな美術も衣装もCGもそれなりの説得力を持って「汚く」見えるものも多いけど、やっぱり作られた汚さだった。
その汚さに通じる話。
ファンティーヌの堕落はもっと「みんなのトラウマ」になりえる場面だった筈だ。
子持ちのいい歳した女であっても不本意なセックスは恐怖である。
少なくもAnne Hathawayの演技はちゃんとそう見える。
しかし過剰なカット割と休ませない歌がそういった恐怖や悲劇性を台無しにしている。
権力者を相手に娼婦としてあきらめて接したファンティーヌの場面でドッグヴィルを思い出した。
レミゼラブルとは逆に、映画なのに美術は平面の舞台とちょっとした小道具だけ。
最初の違和感が凄すぎて酷いと思えたのに気づけばNicole Kidmanやその他の演技だけで成り立たせて背景なぞ全く気にならなくなっていた。そして、乳首など局部をうつさなくたって充分に生々しくエロい、そして不愉快にさせる悲惨さを示したセックスが演出されている。
またセックス前にファンティーヌが歌い終わるところでカメラがファンティーヌを正面からとらえ、男が後ろで動いて後背位になっている場面。
これは男を現実を受け入れつつも状況から逃げ出したい姿勢としてファンティーヌの本意を示した簡潔なカットなのに、そのカットでセックスはおこなわれず次のカットで時間を飛ばして正常位で事後なのだ。
これはない。
エロじゃなく一般作品なのだから黒獣 気高き聖女は白濁に染まるみたいに挿入後に這って逃げる場面に時間をとる必要はないが、Natalie Portmanみたいに表情だけとか、助けを求めて無意識に手が何かを掴もうとするが爪が床をこするだけに終わり、宛も無く手をのばして逃れようとする、くらいは短いカットで自然に出来た筈だ。
実際にNatalie Portmanのそれは同じ構図でそう見せているわけだから。
受け入れてるが逃げ出したい、という矛盾を小さな仕草で積み重ねていけば、もっと恐ろしい場面になったはずで、男性客を喜ばせるんじゃなく、作品においてセックスの卑しさは必要だったのにそファンティーヌじゃなくスタッフがそこから逃げた。
セックスが売りじゃないがセックス自体が作品において重要、いい場面である筈が卑しさによって成り立ってる、という表現で印象深いのはウォッチメン
少なくとも原作は少ないちょっとした描写でセックスしたという行為と意味の両方をすんなり読者に示していたけれど、映画はセックスを実にエロくしちゃったせいで「ヒーロー活動も同等、人間の欲望の発露に過ぎない」という意味合いをすっかり失い単なる男性客歓喜な場面になってしまった。
原題 Les Misérables は、「悲惨な人々」「哀れな人々」の意味である。
とある通り、不幸を礎とした幸福を描いた作品なのに、悲哀の描写が致命的に欠けてるのだ。
ファンティーヌが髪を切られる場面も、Anne Hathawayの表情は悲壮感ばりばりあるのに周りも本人も歌ってるから台無し。
Vフォー・ヴェンデッタで似たような場面がある。
ヒロインのNatalie Portmanが敵にとらえられ丸坊主にさせられる。
Vフォー・ヴェンデッタ自体は仮想未来を描いた作品で、もともと作り物丸出しな前提で真面目にやってるからこその馬鹿らしさも感じてしまう作品なのだけど、その丸坊主を含むNatalie Portmanへの拷問とNatalie Portman自身の演技が、その馬鹿らしさとは乖離した圧倒的に恐ろしく感じられる凄い仕事を披露している。実際にNatalie Portmanの髪を剃り上げたってのもある。
Anne Hathawayも今回のレミゼラブルで実際に髪を切るし、Natalie Portmanと同様に観客が恐ろしいと感じるだけの説得力を持つ演技を見せているにも関わらず、残念ながらレミゼラブルはその前後の馬鹿らしさとは乖離せず、しっかりとした仕事が場面の意味において連続せず酷いものだった。
歯を抜かれるところは苦痛を想像できるからこそ怖かったが、もっとトラウマに出来た筈なのにどうしてそこをおさえたのか、と思って残念だった。 いかにも作り物なのに演技だけで説得力をもたせることだって出来る。第9地区がそれだ。特撮よろしく手だけが人外なのだが、それが日曜朝の特撮レベルなのに、その腕をつけた役者が自分のその腕を切り落とそうとする演技なんてすげえ痛そうでもうやばかった。目をそむけたくなるような説得力があった。
レミゼラブルも演技は皆素晴らしいと思う。喜怒哀楽が全てちゃんと喜怒哀楽していた。問題なのは役者の能力ではない。
ダークナイト ライジングのパニクったふりをするキャラの演技なんてAnne Hathaway素晴らしかったよ。

コゼット

コゼットのどうでもよさがもう半端なかった。
これに関しては作品の出来というより、女優とか好みであると自覚しているけれども、そもそも作品は次世代を見据えた旧世代を描いているので、どうしてもコゼットが軽くなってしまっている。
コゼットの幼女は良かったけど大きくなってからの女優が正直ヒロイン格ではなかったように思う。好みにすぎないれどもw
コゼットを引き取るヴァルジャンに対して「コレット」と名前を間違えたり、サンタクロースと娼婦の騎乗位の場面は純粋に面白くて笑った。
コゼットのほうが出番が多いがヒロインはファンティーヌのような印象。
GUNGRAVEのマリアとミカのような、本来は本編の補完であるはずの要素が本編を食べてしまった、みたいな。
それでもうさぎドロップのようなエロゲEDにならなかったのが良かった、というかこういう物語における当然の結末だよね。
うさぎドロップは父娘の関係を丁寧に描いたのにエロゲEDで台無し。
レミゼラブルは折角素晴らしい結末なのにそこにいたる過程の積み重ねが弱い。
舞台なら許される時間飛躍も、映画だと唐突だった。
例えば、ヴァルジャンが覚醒して8年後に市長となってるが、8年前と異なる状況でありながらヴァルジャンが登場した途端に同じ場所にジャヴェールがいてえらくせせこましかった。舞台自体が変わっていないから、これは見てた自分の思い込みにすぎないのだけれど。
ファンティーヌが死に際にコゼットの幻覚を見たように、ヴァルジャンがコゼットを目の前にしながらファンティーヌの幻覚を見る、この構成自体はもう涙なくしてみられない筈なのだけど、コゼットとの生活や、時間飛躍した後に飛躍した時間を埋める要素が無いせいで泣けない。
コゼットとヴァルジャンの会話が作品を象徴してるように思う。
ヴァルジャンがコゼットに過去を問われて、人には聞かず言わない言葉があると素晴らしい返答をしているのに、その前も後もヴァルジャン自身がひたすら説明して(歌って)るというのが根本的な矛盾、作品を台無しにしている。

エポニーヌ

失恋脇役が大好きだ。
好きな男の恋路を応援して失恋なんて大好物だけれど、エポニーヌの失恋よりも、言ってしまえばファンティーヌが作品の悲劇を全て引き受けてしまっているので、何この女雨に打たれて自分に酔ってるきめえwww とまではいかないが、どうもエポニーヌを語るまでに踏み込めなかった。
エポニーヌ役のSamantha Barksは気が強そうでおっぱいで申し分ないのだけれど、何故あの状況で男装したのか、とか敵側に乗り込んでいったのか、とか独り相撲だった印象。
失恋脇役は、主人公カップルが幸福であればあるほど際立つものであり作品における幸福の土台である不幸こそが存在意義なのだけれど、それはファンティーヌが最初に見せているのでエポニーヌは作品における劣化噛ませ犬に終わってしまった印象。
噛ませ犬という役割ではない噛ませ、という意味。
これは自分がレミゼラブルを見てた時点で出来の悪さに辟易していたからキャラに着目するだけの魅力を見出せずにいた、というのもある。

良かった点

さて、ここまで書いてあらゆる点が悪かったのかと言うと、そうでもない。もちろん良い点もあったのでそれを列挙。
見せ場となる、あるいは場つなぎの曲が最高。8年後、9年後と時間飛躍する場面の演出と音楽。
銃声の迫力。正直音楽伴奏の厚みよりもどっしりした音で、音量ではなく説得力という点で銃声が全て持っていった。映画館の大音響の利点でもある。この銃声で映画館で見て良かったと思った。
カメラワーク。空をあおぐキャラの顔をカメラがY軸でドリーアウトして別の場面に展開する、全景からドリーインして人物が段々と大きく見えてきてUSになってから「フランス革命!」の台詞と同時に発砲、など映画らしいカメラワークの場面は、流石金のかかった映画で見事。ただしアクション場面は手持ちカメラで許容範囲だけどブレてるし同じ構図ばかりで退屈。銃声だけがすげえ迫力。
同じくカメラワークで、ヴァルジャンが逃げ込んだマンホールが奥に見えるがジャヴェールはそれに気づかずヴァルジャンを探していて、それと気づかずにマンホールに近づいているジャヴェールをドリーでフォロウパンしてる演出。自分はERThe West WingやChristopher Nolan作品のような1カットが長くて動くカメラ好きなので。

最後に

この映画はミュージカルじゃなければ名作だったと思う。
人種、世代、性別、社会と個人、幸福と不幸、人間にとって娯楽作品が内包する全てがあるし、それだけにFF13と同じがっかり。プロットも出演者もいいのに実際の描写が駄目。
少なくとも、これだけの事を書くだけの作品ではあると思う。
自分が見てきた作品との比較ばかりだが、レミゼラブルを見てた時に、実際に連想したのだ。
つまり、レミゼラブル自体が現在の作品に大なり小なり影響している作品であり共通する題材である。
酷い酷いと思いながら見続けていたけれど、少なくも舞台ミュージカルならこうなのだろうな、もしかして原作ではこれについて説明なり主張なりがあったのではなかろうか、と思わせる要素は多くあったし、原作の地力は感じ取れた、原作こそ知りたいと思わせる要素は幾らでもあった。
なので、舞台版のBDと原作はポチった。

映画 [ 2013/01/11 21:02 ]