↑を読んで思ったのだけど、マインドマップを活用してる人としてない(出来ない)人の違いは
「マインドマップという文法(体裁)に固執」してるか否かだと思った。
マインドマップに大切なことは
「全部記録する」点でも
「奇麗に描く」事でもない。
肝心なのは
「忘れないようにする、または思い出しやすいようにする。そして新しいものを連想する」事であって、マインドマップと言われる前に、マインドマップ的な事を実行してきた有名人は
「容易で重要な記憶と記録」を残した結果にすぎず「絵を描かなくちゃ」とか「ここはこの色を使わないと駄目だ」とか考えなかった筈だ。試行錯誤はあっても、それは「便利」だからであって義務でも体裁でもなかったはずだ。
自分にとってのマインドマップ
以下の画像は、自分が
2013年の最悪な映画は「レ・ミゼラブル」(
21357文字)を書く前に、映画を見終わったあとに帰りの電車内でさくっと書いたもの。
記事と比較すると、記事にする前のノートには書いていない事が多いし、字も絵も汚いが、自分にとってはこれで充分だった。映画レミゼラブルを考えると条件反射で連想できることは書かず、作品にとって具体的、また自分が忘れたくない点だけを書いた。
このノートはマインドマップでは無いけれど、マインドマップ的だと言える。理由は以下。
マインドマップでは無いけれど、マインドマップ的だと言える理由
- 文章じゃなく単語
- 文字以外にも図画を描く
- 黒以外の色を活用する
- 対象の時系列を無視して自分の思いついた順番に書く
と言ったところか。先の画像を見てマインドマップとは思われないだろうし、実際にマインドマップではないが、マインドマップを書こうと意識なんてせずに書いた結果がマインドマップ的であったという事。と言っても自分もマインドマップの本を読んでるし参考にしているけれども。
例えば
川崎和男が
「マインドマップ的な発想法は全否定です」なんて書いてるけど、マインドマップ自体が文字や体裁に固執せずに記録する手法なので、現在知られている
マインドマップというパッケージとは異なるが
文字や図画など色などあらゆる視覚的な要素を駆使して記録するというマインドマップの指向こそを把握していれば、マインドマップの否定や挫折にはつながらないように思う。
その自由さこそがマインドマップなのだから。
そしてその自由こそが人間のチカラだ。
←なんか森博嗣っぽいしめだ。