以下の記事を見かけ、先日読み終えた
スカートの下の劇場に共通する面白い命題だったので、幾つか拙い記述を残します。
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ギャルゲと乙女ゲーのパッケージ絵の違いについて↑によると、
ギャルゲと
乙女ゲーの傾向として、
ギャルゲはプレイヤの代替である主人公(男性)の描画がなく攻略対象となる女性キャラクタのみ。対して
乙女ゲーは攻略対象の男性キャラクタと共に主人公(女性)も描画されている、のだそう。
これを読んだ時、前述の
スカートの下の劇場にてこんな記述があったのを思い出した。
--女にとっての性的オブジェは自己の身体--
具体的な1つのイメージを思い浮かべますと、鏡ばりの部屋の中に女性が閉じ込められているというシーンを想定してみて下さい。鏡の面になっているところが全部男性の視線だとします。そうすると、部屋自体が男性だから、ここで女性の性的ファンタジーは男性の視線を媒介にしています。逆に、鏡ばりの部屋の中に男を入れておいて、女性の視線から見るというような逆転の構図が成り立つかというと、そういう形での男性の性的客体化は女性の場合には起きないようです。女性にとっての性的客体というのは、対象の身体ではなくて、自己身体でしかないのです。--(中略)--中にいるのは女という、最初の構図は変わらない。ただ今度は、ぱちっと目を開けて見ると、相手ではなく鏡の中に自分が映っているというわけです。女性の性的なファンタジーは対象にではなくて、対象化された自己像にあります。女はそれに興奮するのです。(148-149頁)
なんとなく感じてはいたことだけれど、こうして言葉にされると声をあげずにはいられない「なるほど!!」
スカートの下の劇場が記す男女の違いに、個性を排除した傾向の話に限るが、以下であると言える。
男性は、今では一部で
属性とも表現されているフェティッシュ(対象)、服装や身体の部位など、個性とは別の共通項(
属性)に興奮する。対象は基本的に自分以外の人物(女性)。
女性は、上記の
属性を男性に認めながらも、自己像に対する男性を見て反応する。あるいは、
上記の引用の通り、自ら自己像に興奮する。
男は見て興奮し、女は見られて興奮する。
この違いがいったい何によるのかは解らない。
きっと、雄雌にまで遡らなければいけない気がする。
繰り返すが、人による、と云うのは前提で、個性を排除した傾向の話。
蛇足だが、僕は
ひろせみほ、
ポン貴花田、
二宮ひかる、
日坂水柯などの男性向けの女性作家エロ作品が好きです。好きな作品が結果的に女性作家だった、と云うだけなんだけれど、作風にはやはり抽象的で共通する情感があるように思う。
局部や部位ではなくて、姿勢や表情を強調すると云うか、これを書きながら自分でもよく解っていませんがA^^;
まあ、僕は
女心の解らない女脳ですから、特に落ちも結論もありません。
異論反論は多々あると思います。解答は得られない命題だとも思います。
だからこそ、喜びや楽しみも見出せるわけですが。
※追記
これうpした後にこんな記事を見つけました。
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男女論を扱うコピペブログの記事のまとめ・
【鯛男】お前ら何フェチ?
Tags : スカートの下の劇場 パンティ 上野千鶴子 ジェンダー