趣味は絞らないといけない話
時間を無駄にしないために行動対象を制限する、というのは当然であり全くの同意。
しかし、趣味は多いほど利点がある、利点もある。
上記の記事だと、写真がへただからあえて撮らない、という例がある。
だが、仕事または趣味で写真撮影する人が見れば、たしかに「もっとこうすればいいのに」という感想を抱かれるだろうが、それは同時に写真撮影経験があるからこそ実像がどうあれ想像により「脳内補完」出来ている能力もある、ということ。
それは経験があるからこその能力であり、能力の優劣とは別に、有経験と無経験で決定的な差がある、ということ。
趣味が多ければ、それだけ多くの実像に対して同時に虚像(脳内補完)をしやすくなる。
逆に、そこまで意識が動くものでない対象に数秒でも時間をかけることこそ、趣味はおろか人生として不合理、無駄遣いだと思う。
また、職種にもよるが、無駄を無くし対象と行動が1種類で幅が無い、というのが仕事であり、自分で多様性を求められるのが趣味だからだ。
逆に、仕事は金のためと割り切り職種を問わず働き、趣味は1つをやり通す、という人生もあるだろう。
それらの選択は個人の自由であるし、最初に書いた通り、時間を無駄にしないために行動対象、趣味を制限する、というのも正しい。
ただ、参照記事の意見に関しては、能力の優劣に固執して「やらない」という考えを明確にしてるからこそ、そこを気にせず好きにやれるのが「趣味」だろう、を前提としてる自分からすると、合理的ではあるが本末転倒だとも思うのだ。
自分は、漫画を読むし映画を見るし音楽を聞いて、写真撮影に映像編集に楽器演奏、最近は新しい自転車を買って運用知識もまた面白い。
多趣味がえらい、という話ではない。
1種類の仕事に対して数種類の趣味。
1種類の仕事に対して1種類の趣味。
数種類の仕事に対して1種類の趣味。
数種類の仕事に対して数種類の趣味。
どれを選ぼうとも個人の自由だ。
オタクにありがちな知識主義も、知識そのものは常に有効だが、他者の趣味にそれを求めるのは間違いだ。
ただ、うまいへた、能力の優劣に固執して行動を制限し入出力の情報を減らす、というのは馬鹿らしい、と思う。
気軽に楽しめるからこその趣味、それもまた正しい。
しかし、音楽を聞くにあたり、ただ歌手の性別や年齢や声が好きだけじゃなく、コード進行や楽器の種類など知識を増やせば、1曲を聞く、楽しむ手間(時間)が増えてコスパもよくなる、とも言える。
その経験をもとに自分で作ったり歌ったりもできる。
現在の消費現象のひとつに、消費者の無趣味があるのではないか、と偏見も含み自分はそう考えている。
映画を売る人間は映画の無料配信には反対だし、音楽を売る人間は音楽を、食事を売る人間は食事を、とそれぞれの立場にそった対象(商品)を軽んじることはないだろう。
趣味として経験した苦労は、消費者であっても提供者を意識することにもつながる、と思う。
ただし、能力を問わず金で解決できるから商売であり利点であるのも事実で、それもまた一概には言えないのだけれど。
話がそれたけれど、いずれ、趣味は自由だ。
個人的には、趣味の数や能力の優劣じゃなく、出力しない趣味こそが無駄だと思うけれど、いずれ、趣味は自由だ。
仕事であれ趣味であれ、重要なのは出力された情報が個人または当代において楽しめ、また次世代に意義を問わず残せるか、と個人的にはそう思う。
その点で著作権の増長は問題だと思ってるが更に話しがそれるので、ここまで。
趣味を持たなきゃという強迫観念も、趣味なのに能力の優劣に固執して制限するのも、自由であるが馬鹿らしい。