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fc2ブログの検索はいつからゴミカスになったのか? このエントリーをはてなブックマークに追加

かつてfc2やlivedoorのブログは、プラグインである「ブログ内検索」でHTMLタグ(ソース)を含む文字列すら検索出来ていた。
それが今は出来ない。
例えばstrongblockquoteと検索しても、検索結果はごらんの有様だよ
かつてlivedoorブログも同じくHTMLタグなどの文字列を検索すると、文章としてなくても記事内のHTMLソースに存在すれば検索結果に反映されたのだが、今じゃfc2と同じく出来ない。

視覚的に記事に反映されていない、という点でHTMLタグ検索が出来ないのは、処理速度を優先した結果としてまだわかる。
しかし、現在fc2のブログ内検索は「記事の本文として見られる」文字列すら検索結果に反映されない。
以下は同じ文字列を含みながら異なる結果の例。
  1. strange
  2. stranger
見てわかる通り、前者に1文字をたしただけなのが後者であり、この場合、前者は同じ文字列を含むから後者の記事を含む(一部重複)結果になる筈だが、前者と後者は記事が重複しない検索結果になってる。
具体的な時期はわからないが、昔はこういう結果ではなかった。例え1文字だけの検索でも、対象の1文字を含んだ記事は全て表示されていた。HTMLタグの文字列で検索すればタグを含んだ全ての記事が見られた。この検索が便利だからfc2使っていたのに、今ではgoogle的な主観的曖昧検索というか、純粋に文字列だけではすまない余計なことをして、使いにくいだけ。
何故なら、検索しても過去に存在する記事が表示されない場合があるからだ。
過去に存在する情報を検索により即座に反映できないならデジタルの意味が無い。
fc2とlivedoorでしか現状を体験してないが、これらは今後改善されるのだろうか?
あるいは、今言ったように文字列を純粋に検索し反映してくれるブログがあれば教えてほしい。
そこに乗り換えるかも。
未分類 [ 2012/12/13 20:18 ]

かずまこを「ディアティア(2)マイディア」2巻は2013年1月31日に発売 このエントリーをはてなブックマークに追加

ディアティア(2)マイディア

ほぼ同日に発売して翌年に2巻が発売された14歳の恋にくらべてこっちは凄くかかったなあ。

漫画 [ 2012/12/13 19:52 ]

【GUNGRAVE】は名作になりそこねた名作 このエントリーをはてなブックマークに追加

今更ながらGUNGRAVEを見た。

未プレイながらゲームが先で、内藤泰弘の作風も知った上で見たのだけど、これは素晴らしい作品だ、と感動すると同時に、どうしてこうなった、と何かくやしさが残る作品だった。

ブランドンは関智一のまんまなのに、ハリーは磯部勉と浜田賢二の2人を使ってる。2人とも素晴らしい仕事をしてるので、配役が不満じゃない。しかし、ブランドンとグレイヴの声が設定上ずっと同じってのは間違いないし関智一は実に素晴らしかったけれども、だからこそ浜田賢二から磯部勉への変化が作中時系列で間があるとは言え違和感がある。自分はゲームをやらず、題名や大体の設定だけを知ってアニメを見たのだけど、もともとハリーは磯部勉のキャラであり、アニメであとから磯部勉には若者無理だべってことで浜田賢二も使ったという経緯があるようだ。

作画が汚い話と奇麗な話が明らかで、ある意味で大事なとこだけに集中する大人の判断力、構成力を発揮してる反面、大人の事情が見え透いてる。

ドラマはとにかく素晴らしい。
自分は最初、ブランドンとハリーの決別は、ブランドンがマリアを愛したがビッグダディがマリアをチカラづくで奪い、ハリーは友情や恋愛よりも野心を選んでビッグダディにつき、ブランドンはビッグダディによってマリアとハリーの両方を失い、最終的にはハリーと決着をつける、みたいなのを予想していたが、ビッグダディが実に人格者であり、ビッグダディが登場する回でしっかりとブランドンや組織の問題や魅力が自然とあらわれている。
また、マリアとブランドンの関係も、ビッグダディが人格者だからこそ、ブランドンにとマリアのそれぞれの行動が実に納得いくものだし、マリアが女神的でありながら普通の女の選択に醜さがないし、マリア自体の出番が少ないながら、ゆえに出てくるところではしっかりとマリアのヒロイン性とブランドンとの関係を無駄なく見せている。今では少なくなってしまった成人系のヒロインだからこそ映えてみえるというのもある。井上喜久子がこれまたいい仕事してんだ。冬馬由美と井上喜久子はまだまだヒロインやれると思うだけどね。

ドラマとは別に、原作(原案)がゲームである流れのアクションだが、これが自分には全くなじめなかった。
九頭文治の初登場回で、銃を振り向かず腕だけを背中や首にまわして撃つ、という演出が実に陳腐に見える。
1話の段階では、世界観の説明をかねた銃のデザインやアクションだったから好みはあれど違和感はなかったが、2話以降でこれはある若者の愛情や野心、環境の不遇や打破などを描いたドラマなのだと示し始めてからは、そのドラマがよくできてるからこそアニメ(ゲーム)っぽい要素がことごとく陳腐にうつってしまった。内藤泰弘だから始められ、らしい要素がアニメでは足枷にしかなっていないという皮肉。
九頭文治が仲間になったあと、張り込んでる対象の部屋に九頭文治では気づかなかったことにブランドンがあっさりと「いやいるぞ」と気づいて狙撃する、あの流れが実になめらかで格好よく説得力もあった。キャラクタの能力や立場の説明と娯楽としての効果を両立した完璧な場面だと思う。だからこそ、ずっとその路線で作られてたらもっとやべえ作品になってたんじゃないかな、と思った。もったいない。

個人的に1番好きな話が8話 FAMILY。
この話に、個人と集団、理想と現実、愛情と野心、制約と自由、過去と未来、この作品にとっての全てが入ってるといっていいと思う。
違う作品だが、COWBOY BEBOP信者の自分が思うビバップへの数少ない要素として、この8話(FAMILY)のような重くのしかかる物語が無い、ということ。ブラッグドッグセレナーデなんてまさにこういう話であってほしかった。次回予告で言うほど渋くも重くもおっさんハードボイルドでもなかったのが当時がっかりしたので。
本作は、ベアウォーケンが裏主人公といっていいかもしれない。自分はそういう認識。
ブランドンとハリーが現在進行の主人公するならば、ベアは完結ずみの主人公という感じ。実際にはあらゆるキャラクタがそういう対比で描かれてる群像劇なのだけど、ベアの印象強さはそれらを含んだ上での演出の結果だろう。
個人的に最高な8話(FAMILY)を見終わって、次の9話が原作ゲーム設定と帳尻をあわせていく展開になるのだが、そこで登場する新しい敵のSF設定が格好悪いし浮いてるしで笑ってしまった。
子安とハリーの対決とか、気配を消せるからって正面にるのにまんま姿が見えなくなるドラゴンボール展開とかも酷いと思った。笑ったけども。

アニメの核心とゲームの前提が、正直噛み合っていない、言えばゲームが足をひっぱてるとすら思った。
ずっとイタリアマフィア的な描写がうまく機能していたのに、いきなりグレイヴの銃や鞄のデザインが出てくると時代錯誤というかもうおかしいとしか思えない。
話が、黄金時代が終わって現代にうつったときの高揚は見事だったが、黄金時代のドラマがどっしりしてるために、現代の連中が変身して戦うのが、作画的にもあれだしコントだった。
あれだけ「ブランドン」という名前の人物を見せながら最終的な名前がビヨンド・ザ・グレイヴ()。
そういう意味では、構成力について先に書いたけど、黄金時代におけるブランドンとハリーの決別、EDを思わせる子供時代の走る2人、などやるべきところはしっかりと視聴者が思う以上の名場面として作られている。だから惜しいと思ってしまうのだけど、そういう意味でずっと作品の芯はぶれずに確信をもって作られていた。

自分としては、不死身とか漫画ドンパチを排除して、ここまで作るならもうドラマだけで銃撃戦ももっと誇張しながらも現実的な、COWBOY BEBOP ガンスリンガー・ガールのような感じで仕上げてくれたら、文句なくBD購入かつ布教するだけの作品だったのに。

感想(考察) [ 2012/12/13 18:53 ]

ノーラン映画と日本の漫画は人物と背景の演出(構図)が同じ このエントリーをはてなブックマークに追加

前から何となく思ってたけどダークナイト ライジングを見て思ったノーラン映画の見やすさや格好よさって日本の漫画に近いな、と思った。
背景が白く、あるいは手抜きとすら言われることもある志村貴子川原正敏作品と同じ印象を受けた。

ノーランの場合には、大画面かつ高画質で緻密な映像を好みながら、広角な構図が多く、また人物が被写体の場合に徹底的に被写体以外の人物を排除し広角でありながら被写界深度が浅く感じられる過剰に奥行きあるセットの背景ボケ、被写体しか存在を許さない徹底した感じが漫画のコマっぽく、それがどのカットでも奇麗に格好よく(気障ったらしくw)見える理由、徹底した省略(抽象)の指向が映画というより漫画に近い、と漠然とだが思った。
もちろん、人工的で無機質でありながら広大で自然を感じさせる独特な美観の美術自体の功績もある、作家や作品や漫画や映画だろうが被写体の明確性こそが基本なのだけれど。

少し話が違うが、いつだったか話題になったfate/zeroの背景がまんまダークナイトを今振り返ると、当然の流れかと思う。
アニメ(漫画)というのはキャラクタがいる空間(背景)が狭くても壁など某かの距離を無視した演出というのがいくらでもできる。
1人しかいられない狭い場所でも、手や足をのばせたり2人以上をおさめたりと撮影を含めた物理的制約が無い。
昔のゲームだと人物と背景の縮尺が明らかに異なるが違和感ない抽象化演出だったりもしたし。
アニメではよくある手法だが、静止したカメラに向かって人物が奥から手前に移動してるのに、人物は大きくならない、また背景とカメラの位置関係は変わらないのに背景が微妙に拡大縮小してる、など。自分が具体的に思いつくのはサムライチャンプルー日高のり子がムゲンと戦い走る場面や、イノセンス竹中直人が独白するところ。
ノーラン映画が古典的でありながら今風に見える理由は、つまり漫画やアニメやゲームでおこなわれてきた縮尺など物理的な障害を無視した人物と背景の対比を実写で再現、あるいは応用したらどうなるか、というマルチメディアが最初から前提である世代の発露(結実?)だから、なんてことも考えた。
当然ながら、ノーランが娯楽作品の何を見てるかなど自分は知らないのだけれど。

ノーラン映画ではないが、そういった嘘をはらみながら、空間の制約を逆手にとったのがリミット(Buried)なのかな。
この作品は過小評価されてると思う。低予算でありながら、と言われてるけど、スタッフも機材も1流だし、設定上は同じ場所でありながら視覚効果を得るために、演出意図にあわせたセットを複数組んでたり、ロケが無く登場人物が極端に少ない、という特徴がありながら「低予算」自体が売りではない1流の娯楽作品だと思う。

前に少ない資料と結論ありきで書いたアメコミの背景は日本の漫画より凄いのか?と絡めて何か考えてみようか。
また、娯楽作品における「ただ走る」という格好よさについて記事を書きたいので、空間という意味でそこを絡めても面白いか。
ノーランの映像がどうして何となくだが洗練され格好よく見えるのかを具体的に分析した秀逸な記事って無いのかな?

映画 [ 2012/12/13 17:55 ]