日常をうまいこと娯楽に仕立て上げてる『
よつばと』と、日常には無縁である知識があたかも幻想ではなく常識なのだと示す
京極堂シリーズ。
作風も異なれば主題も異なる2作であるけど、僕にとってはともに憧れる作品である。
その憧れの対象とは何か、
友人である。
それぞれの友人
ここで言う友人とは【
よつばと】=
ジャンボ、ヤンダ。【
京極堂】=
榎木津礼二郎、木場修太郎である。
よつばと!
まずは前者【
よつばと】の
ジャンボと
ヤンダだが、特に
ヤンダ初登場の話がわかりやすい。
彼、
ヤンダは仕事の昼休みにカップラーメンを持参し
よつば(
とーちゃん)家に来宅。そして何かごちそうになるでもなく
持参したカップラーメンを食べるだけで「じゃまた飯食いに来ます」と言って職場へ帰ってしまう。
無論、漫画であるし実際には登場人物達の会話なりが展開されるのだけど、要約すると以上なのだ。
何が言いたいのかと言うと、
彼らにとっては改めて会おうと段取らずどこかに行こうと目的もなく、ただ一緒にいるのが目的、生活の一部なのだ。
他には
とーちゃんは仕事しつつ
ジャンボは同じ部屋で寝そべって雑誌を読んでる、など。
気遣いは作中にもあるし、現実で良い関係を築こうと思うならばなおさらだが、特に年齢を重ねると難しいのは声をかけるか否か、だと思う。
互いに予定と言うものがあり親しくともそこはやはりどうにもならない事だ。
京極堂
さて後者【
京極堂】=
榎木津礼二郎と
木場修太郎。
関口を外したのは作中の「知人です」に準拠したわけでなく今回の論点である立場役割とは異なるからで他意はないw
わかりやすいのは
魍魎の匣における
榎木津のくだりだろうか。
「今日はね、何と話があって来たのさ」と嘯いた。つまりは、矢張りいつも明確な意図などなくここを訪れている、と云うことである。
彼らはともに戦争経験者であり、だからこその連帯感と言う前提もあるけれど。
木場を含めた
百器徒然袋 雨の描写はこうである。
どうするんだよおい――と木場が尋く。
「やっつけるのだ。勧榎木津懲悪だ!」
どこの言葉だよと木場が云った。
昨夕榎木津が攻撃宣言をした後、木場や中禅寺は各各の持ち場を無言のうちに諒解したらしく、大した打ち合わせもないままに散ったのだった。
こちらは娯楽作品故の誇張もあるし、もっと幻想的なので何とも言えないけど彼らの関係性だけはしっかりわかる。
創作だからこそ可能な
心のつながりではあるけれど、人種性別世代を限らず誰でも抱くことではなかろうか。
わざわざ「会おう」と言わずに会える、話題はないかと頭をまわさず無言のままにただ同席する。
これらは親兄弟ならば全く当然にこなせるけど、知人を相手にはやはり難しい。
恋愛だとまた違う。互いに欲求がはっきりあるだけに喧嘩もあるが馴染むのも早い。
娯楽における
幼馴染が根強く人気なのもこれらの理由と同じく「気遣わず弱みも許容される」からだし、実際の自分にとっての関係の善し悪しは別として、それでも私は、何だか酷く男が羨ましくなってしまった。
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