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最近、漫画を楽しめない理由 このエントリーをはてなブックマークに追加

作品の優劣ではなく単行本の判型が小さい
映画、アニメ、ゲームは画質も音質も媒体(容量)の成長と恩恵を受けているが、漫画はいつまでたっても雑誌より小さく色にも乏しい。
漫画は少数で作れて読むのに手軽である、というのが利点だけど、近年の映像媒体の進化、自分でも撮影や編集するとなおのこと、漫画が貧しく見える。
進撃の巨人海皇紀なんかを新書判で読む虚しさ。
日本の漫画ほどではないがアメコミも読むので、フルカラーはともかくB5サイズはとても読みやすく迫力もある。
日本の漫画もB5が基本になればいいのに。
価格や女子供対策とか問題も多いだろうけど。
感想(考察) [ 2013/02/06 16:07 ]

ツンデレの魅力はギャップ萌えにあらず このエントリーをはてなブックマークに追加

ツンデレの魅力はギャップ萌えだとするのが一般的だが、果たしてそうだろうか?
もちろんそれも一因だが、自分がツンデレに見出す魅力とはギャップ萌えじゃなく関係の確信だと思っている。それを以下に記す。

ツン=幼さ(純粋さ)故に自分(主人公)を見限らない安心感

ツンというのはそもそも好意を隠す、言うなれば幼さだ。その幼さは純粋さと同じで、純粋だからこそ主人公(視聴者)を絶対に見限らない
ツン(憎まれ口)というのは互いにある程度認め合った関係じゃないと出来ない行動であり、ツンそのものが関係の完成を意味する。もちろん、創作物の場合には逆で、最初はツンだが親しくなりデレるのが基本形だが、ツン=デレ、とツンの時点で関係の完成がわかる安心感。
ツンの時点でデレ=関係の幸福、が約束されている。
前に『あの夏で待っている』9話の「切なさ」にほど遠い失恋の重要性と違和感でも書いたが、現実には運命の相手なんてありえない。ちょっとした事ですぐに見限り見限られ、関係は死ぬまでわからない。だからこそ娯楽作品は関係の成就こそが売りで、ツンデレとは最たるものだということ。
また、同じく『あの夏で待っている』9話の「切なさ」にほど遠い失恋の重要性と違和感でも書いた通り、ツン=純粋だからこそ、失恋キャラであっても一途でいい性格である傾向がある。

ツン=ハードボイルド

もちろんツンにも色んな性質があって、デレる必要の無いハードボイルド的なツンもある。信頼しているからこそ何も言わず、達成されても礼も言わない。という類のもの。バットマン:アーカム・シティのバットマンとロビンみたいな。
この場合にはデレを必要としない。 言わなくても通じ合っているという言葉を無粋とする男の世界。 ツンというのは、感情の過剰表現であると同時に、感情表現が不要な確信、未熟と完熟の両方を孕んでいるのだ。

要約

  • ツンという幼さ(純粋さ)故に主人公を絶対に見限らない
  • ツン(憎まれ口)はデレ(愛想)が不要な親しい関係じゃないと成り立たない
以上の2点、本人の行動(ツンデレ)と言うよりも、ツンデレが成り立つ前提の関係性にこそツンデレの魅力があるのではないか、と自分は思う。

感想(考察) [ 2013/01/27 18:01 ]

涼宮ハルヒで有名な「立ち姿勢」の名前 このエントリーをはてなブックマークに追加

涼宮ハルヒの憂鬱で有名なこの立ち方。

涼宮ハルヒで有名な「立ち姿勢」の名前

この姿勢に名前が無いかずっと調べたり考えてたりしたんだけど、ツン(S気)キャラに多く、左右の腕の形もSになることから、暫定でSタンドまたはS立ちと名付ける。
それとも、もっと良い名前を考えついたり、既存の名称があるならそれに従う。

感想(考察) [ 2013/01/27 02:22 ]

モテるのに納得できるだけの精神的な強さ このエントリーをはてなブックマークに追加

ドラマのTHE MENTALIST(メンタリスト)や実際のインビジブル・マーケティングなどのモテ本や愛され云々の記事を見るたびに思うのだけど、これらを応用した好結果に納得するには強くなければならないと思う。
自分は知識として興味があり調べたり読んだり、時には実践するけども、それが成功しても統計による結果であって自分個人に向けた好意ではないと認識して、むしろ手段は継続しても対象に不信感を抱く。
つまり、気をつかって好かれても気をつかってる自分を評価しているのだからその関係に疲れてしまう。
そんなのは当然で、自分もそうだし、誰も彼も自分の都合に限り生きているものだ。
自分が知識や技術や、その集合の証明や表現してる人間を好むのは、つまりそういう事なのかな、と思ったり。
ある1点の評価だけで、それ以外の評価などしないし、されない、という世界。
誰が言ったかではなく何を言ったかが重視される世界。
自分が喜嶋先生の静かな世界を森博嗣の最高傑作だと思う理由の1つがそこにある。人間関係は感情が先立って成り立つものだが、その感情を排した上で成り立つ関係もあっていいんじゃないか、という事。
感想(考察) [ 2013/01/26 15:00 ]

【マインドマップ】に挫折する人はマインドマップの「体裁」を気にしてるから このエントリーをはてなブックマークに追加

↑を読んで思ったのだけど、マインドマップを活用してる人としてない(出来ない)人の違いは「マインドマップという文法(体裁)に固執」してるか否かだと思った。 マインドマップに大切なことは「全部記録する」点でも「奇麗に描く」事でもない。 肝心なのは「忘れないようにする、または思い出しやすいようにする。そして新しいものを連想する」事であって、マインドマップと言われる前に、マインドマップ的な事を実行してきた有名人は「容易で重要な記憶と記録」を残した結果にすぎず「絵を描かなくちゃ」とか「ここはこの色を使わないと駄目だ」とか考えなかった筈だ。試行錯誤はあっても、それは「便利」だからであって義務でも体裁でもなかったはずだ。

自分にとってのマインドマップ

以下の画像は、自分が2013年の最悪な映画は「レ・ミゼラブル」(21357文字)を書く前に、映画を見終わったあとに帰りの電車内でさくっと書いたもの。

記事と比較すると、記事にする前のノートには書いていない事が多いし、字も絵も汚いが、自分にとってはこれで充分だった。映画レミゼラブルを考えると条件反射で連想できることは書かず、作品にとって具体的、また自分が忘れたくない点だけを書いた。 このノートはマインドマップでは無いけれど、マインドマップ的だと言える。理由は以下。

マインドマップでは無いけれど、マインドマップ的だと言える理由

  • 文章じゃなく単語
  • 文字以外にも図画を描く
  • 黒以外の色を活用する
  • 対象の時系列を無視して自分の思いついた順番に書く
と言ったところか。先の画像を見てマインドマップとは思われないだろうし、実際にマインドマップではないが、マインドマップを書こうと意識なんてせずに書いた結果がマインドマップ的であったという事。と言っても自分もマインドマップの本を読んでるし参考にしているけれども。 例えば川崎和男「マインドマップ的な発想法は全否定です」なんて書いてるけど、マインドマップ自体が文字や体裁に固執せずに記録する手法なので、現在知られているマインドマップというパッケージとは異なるが文字や図画など色などあらゆる視覚的な要素を駆使して記録するというマインドマップの指向こそを把握していれば、マインドマップの否定や挫折にはつながらないように思う。 その自由さこそがマインドマップなのだから。 そしてその自由こそが人間のチカラだ。 ←なんか森博嗣っぽいしめだ。

感想(考察) [ 2013/01/15 16:24 ]