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厳密には書き上げたものを修正なり追記なり、ということになるのだろうが。
自分は久々に【サイド・バイ・サイド】映画のフィルムとデジタルの損失と獲得ドキュメント=長文を書いて、記事に書くべき内容の半分から1/3くらいで1度投稿した。
体裁だけ整えてそれなりのアクセスを稼ぎつつ記事を完成させる、という利点があるし、また即時修正可能なものデジタルの利点であるし、書き終わってからじゃないと思い込みを含めて判断できないことがある。
  • 読者から突っ込まれた点
  • 誤字・脱字、リンク切れ・間違い
  • 書き終わってから出てきた新情報
などなど。
仕事で書いてる記事には出来るだけこれらが少ないほうが良いし命取りになりかねないから必ずしも有効ではないが、最近のゲームはデバッグをユーザにさせるベータ販売、なんて揶揄される事もあるし。個人でやるぶんにはこの方法を前提としたほうが結果的に書く量(記事数)が増えるので良いのではないか。
ただし、一度投稿してしまうと「やりとげた」気になって放置してしまう恐れもあるので、あくまで根本的に「過去の蓄積を意識」してる人にだけ向いてる方法とも言える。

感想(考察) [ 2012/12/24 12:46 ]

【サイド・バイ・サイド】映画のフィルムとデジタルの損失と獲得ドキュメント このエントリーをはてなブックマークに追加

サイド・バイ・サイド(side by side)を見てきた。


本作は、映画の撮影と編集がフィルム(アナログ)からデジタルデータにうつりいく現代において何を失い何を得たか、をハリウッド映画の現場で働く監督らにインタビュウしたキアヌ・リーヴスがプロデュースしたドキュメント。
ただのドキュメントじゃなく有名な監督などに気さくにインタビュウ出来て一般客の気を引けたのはキアヌのネットワークだからこそだろう。
出演者については公式サイトで見られる。誰か1人くらいは知ってる監督がいるだろうし、1人でも好きな監督がいたら見に行く価値はあると思う。

アナログとデジタルの利鈍については既に一般的なので、そこを素人にわかりやすく説明してる箇所が長くてだれたが、それぞれの監督と作品がどのカメラ(フィルムかデジタルか)を紹介したり、各監督がどちらが好みかを語ってるのが面白い。
短い1カットだけだが、セグウェイを利用した移動式カメラ機材の映像があって笑った。

作中で紹介されたフィルム(アナログ)とデジタルの利鈍についてまとめておく。
フィルムデジタル
高価安価
撮影時間が短く、フィルム交換が手間で遅い。撮影時間が長く、記憶装置の交換が容易で早い。
ダイナミックレンジ(DR)が大きい(色の数が多く暗い場所でも奇麗に撮れる)DRが小さい。暗い場所に弱い。
画質が常に劣化し続けるが何10年と長期保存,再生が可能。画質は劣化しないが保存媒体の寿命が短く急に再生できなくなる。
フィルムの回転や銀塩による人間が無意識に感じる動きにより静止した場面でも躍動を感じられる。データ読み込みによる映像の変化が無いので撮影意図をより反映させられる。
現像に時間がかかり撮影した映像を確認できるのが翌日。現場(パソコン)ですぐ見られる。
合成や加工など編集が困難。合成や加工など編集が容易。
撮影した映像がどういうものか、ジョージ・ルーカスが「(撮影現場の)モニタを見ればわかる」と言ったあとにクリストファー・ノーランに切り替わって「モニタじゃ駄目だ。観客は大きい画面で見るのだから自分(監督)も同じもので見なければ」と編集でつながれていて突っ込みに笑った。

役者の話としては、キアヌ・リーヴスがデジタル撮影は連続撮影時間が長くてつらい休ませろよ!と冗談まじりに言っていた。ジョン・マルコヴィッチは舞台出身ということもありフィルムの交換で撮影が止まるよりも長時間連続して撮影してたほうが演技の質をたもてると言っていた。
面白かったのが、ロバート・ダウニー・Jrが10時間以上の連続撮影で休みがないので現場に溲瓶を置いて「休憩」を主張していたという。

撮影監督というのはカメラマンではない。カメラとレンズの知識をもって、監督の意向にそった構図を求めて美術や照明などに指示する。
フィルムの時代は、撮影した素材を現像した品質、評価は撮影監督のものだった。技術と印象を両立させる技術屋で敬意ある立場だった(今でもそうだが)。しかしデジタルになり誰でも撮影と編集が可能になり撮影監督の立場(権威)が危ぶまれているとも。
フィルム時代には、ラッシュ(現像された映像を見る)で監督が撮影監督の手腕に感動することもあれば、逆に色やピンボケなどで「Fuck!」と思うこともあった、というのに笑った。
そういった手間などが無いデジタルカメラだからこそ、自主制作映画が賑わってきている。
映像も録画できるデジタル一眼レフカメラCanon EOS 5DEOS 7Dにより安価で、映画用の大型カメラにくらべたら劣るものの高画質で撮影できるようになり、また操作も容易なので映画撮影は無理だと思ってたいた脚本家のレナ・ダナムはまさにデジタルのおかげで映画を作れた、と言っている。
自分も初代EOS Kiss Xでデジタル一眼レフに手を出して、不満は無かったものの1080pが撮影できると聞いてEOS 7Dを買ったのでとても共感した。

ダニー・ボイル曰く28日後は1場面に10台のデジタルカメラをもちいて撮影した。画質はフィルムに劣るが、デジタルの画質、ある意味で誇張されない人間の目に近いコントラストが作品に臨場感を持たせた、そうだ。28日後はアカデミー賞(撮影賞)を受賞している。
スラムドッグ ミリオネアでは子供が走るのをカメラが低い視線で追いかける場面にフィルムカメラの大きさと重さでは無理なのでSI-2KというデジタルカメラにつないだMacBook Proをかついで撮影した。

ただしデジタルカメラにも問題あってパソコンと同じくソフト的にクラッシュする。また温度変化に弱く、猛暑の中で撮影してたらカメラが止まってしまい、氷をあててひやしながら撮影にのぞんだという。

デジタル派のジェームズ・キャメロンは、キアヌ・リーヴスに「コンピュータで作られたものは嘘っぱちだよね?」と煽りぎみの質問に対して、「でも君も知っての通り、撮影現場ではありもしないものをあるように演技したり、ニューヨークだと言いながら実際にはバンクーバで撮影してるじゃないか」と笑いながら映画撮影の本質を示し反論していた。
アバターは1/3がロケ、2/3がCGだが、その変わりにえらい予算と手間をかけた架空世界を構築した。これについては後述する犬童一心の評価が面白いのでひとまずここまで。

デジタルカメラの利点は、撮影後の加工、合成が容易だということ。フィルムではフィルムAとフィルムBを重ねて合成するとどうしても画質が劣化する。
反面、フィルムを切り貼る後戻り出来ず現物の手応えある編集は、作業に緊張と集中をもたらしてくれる。
フィルムのほうが動作音や金額の問題で現場が緊張して集中できる、という精神的な利点もあげられていた。
上映後に犬童一心という自分は知らない映画監督の対談があったが、これが面白くてフィルムとデジタルの利鈍について同じような事を語っていた。
デジタルで撮影,編集するようになって、あとでなおすから、ということになってきて現場での緊張感(映画的な感覚)が無くなってしまった。映画を映画にしているのは儀式と祈り。肌で感じられるロケや壊れたら撮りなおせないミニチュアなどによって得られる緊張(儀式)と、問題なく撮影が終わるように祈る、これが映画にとって必要な映画の要素なのではないか。
これは要約であって多少言葉は異なる。
自身の作品のぼうの城では見せ場は予算と手間をかけてミニチュアで撮影したが、金がつきて冒頭の某はCGしてしまった、自分にとって儀式(映画に対する情熱?)が足りなかった、とも。
出来るだけフィルムと、CGじゃなくミニチュア(現物)撮影を実行するノーランのダークナイトに好評価だったり、しかし、デジタル(CG)万歳のジェームズ・キャメロン(アバター)に対しては感情的かつ冷静な評価だった。
キャメロンはフィルム(現物,ミニチュア)じゃなくデジタル(CG)ばかりで作っているが、その技術によってどこまで出来るか、その技術そのものが作品となる情熱、予算と手間をかけているので、ただ「楽だから」という理由でデジタル処理した「儀式」の欠けた作家じゃなく、むしろデジタル自体が「儀式」である大馬鹿(褒め言葉)で大好き。
これまた要約であって多少言葉は異なる。
この映画自体がそうしめているが、素晴らしい作品への情熱があれば手段は問題ではない、という無難な精神論であると同時に、現場の当事者だからこその要点でもある。

この作品で最も面白い、素人が他では見られない点はカラリストだろう。
撮影と編集が全て終わった映像を、最後に映像の色やコントラストなどを調整していく作業、または担当者。日本の実写がしょぼく見える理由は、言えば予算になるのだが、撮影後のこういった手間(ポストプロダクション)を軽視してるからじゃないからか。
ドラマや映画のメイキングを見るとわかるが、特典で見られる没場面などは画質が凄く汚い。良いカメラと適切な照明で撮影されたにも関わらず、まず汚く見える。それは完成品がカラリストによって仕上げられているからだ。そのカラリストの重要性について現場スタッフ語っている。
実はノーランが目的で見に行ったところがあるのだが、これが1番面白かった。というかやっぱりそういう手間をかけてたんだ、と何となく想像してたものにあてはまる明確な答えが示されて感動した。

また600円のパンフレットも素晴らしい。
出演者である監督や撮影監督の代表作品と、その作品に使われたカメラの種類まで記載されている。またこの映画自体に使われたカメラやインタビュウも。

感想(考察) [ 2012/12/23 10:07 ]

【GUNGRAVE】は名作になりそこねた名作 このエントリーをはてなブックマークに追加

今更ながらGUNGRAVEを見た。

未プレイながらゲームが先で、内藤泰弘の作風も知った上で見たのだけど、これは素晴らしい作品だ、と感動すると同時に、どうしてこうなった、と何かくやしさが残る作品だった。

ブランドンは関智一のまんまなのに、ハリーは磯部勉と浜田賢二の2人を使ってる。2人とも素晴らしい仕事をしてるので、配役が不満じゃない。しかし、ブランドンとグレイヴの声が設定上ずっと同じってのは間違いないし関智一は実に素晴らしかったけれども、だからこそ浜田賢二から磯部勉への変化が作中時系列で間があるとは言え違和感がある。自分はゲームをやらず、題名や大体の設定だけを知ってアニメを見たのだけど、もともとハリーは磯部勉のキャラであり、アニメであとから磯部勉には若者無理だべってことで浜田賢二も使ったという経緯があるようだ。

作画が汚い話と奇麗な話が明らかで、ある意味で大事なとこだけに集中する大人の判断力、構成力を発揮してる反面、大人の事情が見え透いてる。

ドラマはとにかく素晴らしい。
自分は最初、ブランドンとハリーの決別は、ブランドンがマリアを愛したがビッグダディがマリアをチカラづくで奪い、ハリーは友情や恋愛よりも野心を選んでビッグダディにつき、ブランドンはビッグダディによってマリアとハリーの両方を失い、最終的にはハリーと決着をつける、みたいなのを予想していたが、ビッグダディが実に人格者であり、ビッグダディが登場する回でしっかりとブランドンや組織の問題や魅力が自然とあらわれている。
また、マリアとブランドンの関係も、ビッグダディが人格者だからこそ、ブランドンにとマリアのそれぞれの行動が実に納得いくものだし、マリアが女神的でありながら普通の女の選択に醜さがないし、マリア自体の出番が少ないながら、ゆえに出てくるところではしっかりとマリアのヒロイン性とブランドンとの関係を無駄なく見せている。今では少なくなってしまった成人系のヒロインだからこそ映えてみえるというのもある。井上喜久子がこれまたいい仕事してんだ。冬馬由美と井上喜久子はまだまだヒロインやれると思うだけどね。

ドラマとは別に、原作(原案)がゲームである流れのアクションだが、これが自分には全くなじめなかった。
九頭文治の初登場回で、銃を振り向かず腕だけを背中や首にまわして撃つ、という演出が実に陳腐に見える。
1話の段階では、世界観の説明をかねた銃のデザインやアクションだったから好みはあれど違和感はなかったが、2話以降でこれはある若者の愛情や野心、環境の不遇や打破などを描いたドラマなのだと示し始めてからは、そのドラマがよくできてるからこそアニメ(ゲーム)っぽい要素がことごとく陳腐にうつってしまった。内藤泰弘だから始められ、らしい要素がアニメでは足枷にしかなっていないという皮肉。
九頭文治が仲間になったあと、張り込んでる対象の部屋に九頭文治では気づかなかったことにブランドンがあっさりと「いやいるぞ」と気づいて狙撃する、あの流れが実になめらかで格好よく説得力もあった。キャラクタの能力や立場の説明と娯楽としての効果を両立した完璧な場面だと思う。だからこそ、ずっとその路線で作られてたらもっとやべえ作品になってたんじゃないかな、と思った。もったいない。

個人的に1番好きな話が8話 FAMILY。
この話に、個人と集団、理想と現実、愛情と野心、制約と自由、過去と未来、この作品にとっての全てが入ってるといっていいと思う。
違う作品だが、COWBOY BEBOP信者の自分が思うビバップへの数少ない要素として、この8話(FAMILY)のような重くのしかかる物語が無い、ということ。ブラッグドッグセレナーデなんてまさにこういう話であってほしかった。次回予告で言うほど渋くも重くもおっさんハードボイルドでもなかったのが当時がっかりしたので。
本作は、ベアウォーケンが裏主人公といっていいかもしれない。自分はそういう認識。
ブランドンとハリーが現在進行の主人公するならば、ベアは完結ずみの主人公という感じ。実際にはあらゆるキャラクタがそういう対比で描かれてる群像劇なのだけど、ベアの印象強さはそれらを含んだ上での演出の結果だろう。
個人的に最高な8話(FAMILY)を見終わって、次の9話が原作ゲーム設定と帳尻をあわせていく展開になるのだが、そこで登場する新しい敵のSF設定が格好悪いし浮いてるしで笑ってしまった。
子安とハリーの対決とか、気配を消せるからって正面にるのにまんま姿が見えなくなるドラゴンボール展開とかも酷いと思った。笑ったけども。

アニメの核心とゲームの前提が、正直噛み合っていない、言えばゲームが足をひっぱてるとすら思った。
ずっとイタリアマフィア的な描写がうまく機能していたのに、いきなりグレイヴの銃や鞄のデザインが出てくると時代錯誤というかもうおかしいとしか思えない。
話が、黄金時代が終わって現代にうつったときの高揚は見事だったが、黄金時代のドラマがどっしりしてるために、現代の連中が変身して戦うのが、作画的にもあれだしコントだった。
あれだけ「ブランドン」という名前の人物を見せながら最終的な名前がビヨンド・ザ・グレイヴ()。
そういう意味では、構成力について先に書いたけど、黄金時代におけるブランドンとハリーの決別、EDを思わせる子供時代の走る2人、などやるべきところはしっかりと視聴者が思う以上の名場面として作られている。だから惜しいと思ってしまうのだけど、そういう意味でずっと作品の芯はぶれずに確信をもって作られていた。

自分としては、不死身とか漫画ドンパチを排除して、ここまで作るならもうドラマだけで銃撃戦ももっと誇張しながらも現実的な、COWBOY BEBOP ガンスリンガー・ガールのような感じで仕上げてくれたら、文句なくBD購入かつ布教するだけの作品だったのに。

感想(考察) [ 2012/12/13 18:53 ]

TARI TARIと氷菓を見て今のアニメのキャラデザは「恋愛」に特化し「青春」には至らないと思った このエントリーをはてなブックマークに追加

TARI TARI氷菓を見て思った。
今の萌えデザインは、美少女を基準に同じ方法で男も描くから強いとか鋭さを見出せないし、青春は青春だけで美しいのに更に登場人物を全て奇麗に描いてるからうすら寒い。
ただし、個人または世代の問題かで、ある種の汚さをともなった作品を知らない世代にとっては何の問題もなくのめり込めるのかも知れない。
男と女の両方に買わせようとしてるから、結局美男美女に落ち着くのは当然とも言える。
作品の前者は最後の感動演出がくどく、後者はミステリ要素が不要だと思ったがどちらも楽しんで見られる丁寧な作りだし、若者の描写によってのみ成り立つ青春ではあるのだけど、結局のところ美男美女の恋愛にしか焦点があってない、かつ見た目にも行動にも汚さが一切無い、これらを萌えであって青春と言えるんだろうか?
男にせよ女にせよ登場人物に見た目が最低条件なのは当然で、これは絵そのものが孕む問題でもあるけど、性差の無い同じ顔が異性として存在してる描写に、互いの無理解やご都合な要求による衝突を危ぶむ関係を見出すのは難しい、と思う。
ガッツとシールケ、とまでは言わないけどキャラデザに男女の温度差が欲しい。

感想(考察) [ 2012/11/08 15:16 ]

裏切りのサーカス - 感想 このエントリーをはてなブックマークに追加

裏切りのサーカスを見た。
最初から最後まで作品の乗りや勢いが変わらない、徹底的な作品だったが、全く人物と場所が変わったカットでは、場所が変わっただけなのか時系列が変わった場面なのかわかりにくかった。
郷愁の強い作品なので、作中の現在も過去も同じように見えてしまい把握するのに手間取った。

淡々としているので、登場人物の重要性や名前やらを把握しきれず、見終わってから意味がわからない、あるいはそもそも思い出せないこともある。ただしずっと静かなのに緊張がたもたれていて2時間あるのに全く退屈しなかった。
ラスボスと思われる人物の出番が意外と少なく、原作で解決する問題らしく意味あいがわからなかった。
それぞれの関係にもついていけず、しかしこれは原題のTinker Tailor Soldier Spyを最初から強く意識していれば見方が変わっていたかもしれない。邦題は格好いいと思うけど地味なミスリードになってる気がする。
主人公が何故に真実にいたったか推理の筋道が理解できなかった。

実現するかわからないが、人狼の実写化が企画されているという話、この作品にならえば素晴らしい結果になるのではないか。

音楽が圧倒的。静かだが動く、騒がずに緊張させる、何もしていないが作品を支配している素晴らしい仕事。木管が動く曲が面白かった。

顔で気づかなかったが声でBBCのシャーロックだと気づいた。
「11月20日」と答えるトムの声がベイン過ぎて笑った。
イリーナがエロかった。あとイリーナの初登場で愛人の騎乗位が。
車外から車内を見せる場面の風景が明らかな合成で残念。
スタッフロールの移動は何を狙ったのかわからなかった。
売りは無いが見せ場ばかり、視覚的ではなく最初から最後まで徹底されている、という意味で。思ってたよりも銃撃戦などなくひたすらに喋る、あるいは喋らない人物描写によりなりたっている静かで地味でしたたか。意味がわからない、把握しきれない点も多く疲れるが、何故かくどいとも退屈とも感じない、いいおっさん映画だった。

感想(考察) [ 2012/11/06 06:24 ]