凄い。この本は凄い。色色と書いてまとめたかったけど、まだ自分で消化しきれてない。
今迄、
国語国字問題に関する本は色色と出ていて、その中で有名な福田恒存の
私の国語教室を読んだ時、
当用漢字と
現代かなづかいが力技であると知り多くを学べたが、反面、
歴史的仮名遣もまた不明な点が浮き彫りになり、結局現代人の自分には純粋な知識と云う以外の意味がつかめなかった。
しかし、この本は違う。先ず
カテーの問題と表し、日本人は音(声)を聞いただけで
カテーの問題を
假定(仮定)の問題か
家庭の問題かを文脈から瞬時に判断し、それを日常的に行えているのは何故か、それは漢字が日本に入って爾来、文字(漢字)が先に立つ言語文化だから、と示す。
無論、先に挙げた福田恒存の
私の国語教室でも
表記法は音にではなく、語に隨ふべしと記してあったし、本書
漢字と日本人に限った表現、考察ではない。
本書の優れたるは、英語と漢語(漢字)と日本語の類似点と解離性を、文法と音節の説明から入り、発言と文字のどちらを優位とするかの文化(指向)の違いを説き、これが非常に解り易い。かつ面白い。
というのも言語の違いを明らかにすることで英語の指向(概念)をも知り、英語の理解にも繋がるのだ(なお日本語と英語の指向、概念の違いは
日本人の英語が非常に解り易く勉強になる)。
また、常用漢字表などの表現に準じつつ、何故
仮定の問題、ではなく
假定の問題と一部従わずに表外漢字をつかうのか、その説明も至極理にかなっている。
部首などに従い、
『假』は暇,瑕などと同じで
『カ』の意味と音節を持つ。
『仮』は版,板などと同じで
『ハン』の意味と音節を持つ。
つまり、假を仮とすると漢字の体系的な
読み(音節)や
意味を失い、熟語として本末顛倒だと云うのだ。
目から鱗。
日本は漢語(漢字=文字)を手に入れた。
その代償に日本語(大和言葉,和語)の発展を意図せずに切り捨てた。言葉=概念であり、つまり外来の概念がそのまま日本の概念として広まり、結果
「十一月の三日は祝日で、ちょうど日曜日です」と同じ文字でありながら
カ,ジツ,ニチ,ビと異なる読み(音節)を無意識にこなせる器用さと曖昧な国語(概念)を手に入れた。
そして、それが
国語国字問題に連なり、音と意の両方が曖昧な言葉となり、漢字の表意,表音からも外れ、和語(大和言葉)の発展も望めぬ、理論として誤った教育(国語)となった。
著者は漢字(現在の国語)を愛するがゆえに辛辣だ。
これ程の事を書きながら、著者である
高島俊男は出来るだけ漢字はつかわないほうが良いと云う。
それは、常用漢字のように漢字の制限は不当であり漢字をつかうならば表音と表意に従い
旧字もあわせてつかうべきだ。
しかし反面、大和言葉には漢字を用いず
かなをつかうべき、例えば
使うではなく
つかうと書く。
自尊心や劣等感からの、あるいは限られた知的階級の漢字崇拝は愚かであり、同様に欧米を至上とし過去を含めた日本の歴史(文化)を切り捨てる漢字撤廃も愚かと著者は説く。
著者は
終章 やっかいな重荷でこう記す。
漢字は、日本語にとってやっかいな重荷である。それも、からだに癒着してしまった重荷である。もともと日本語の体質にあわないのだから、いつまでたってもしっくりしない。しかし、この重荷を切除すれば日本語は幼児化する。へたをすれば死ぬ。この、からだに癒着した重荷は、日本語に害をなすこと多かったが、しかし日本語は、これなしにはやってゆけないこともたしかである。腐れ縁である。――この「腐れ縁」ということばは、「くされ」が和語、「縁」が漢語で、これがくっついて一語になっている。日本語全体がちょうどこの「腐れ縁」ということばのように、和語と漢語の混合でできていて、その関係はまさしく「腐れ縁」なのである。日本語は、畸形のまま生きてゆくよりほか生存の方法はない、というのがわたしの考えである。
自分自身、劣等感から漢字崇拝のきらいがある。けれど、本書を読んで旧字の勉強をもっとはげもうと思う反面、
かなの扱いを考えもっと多用しようと思った。
本書はやや差別的な文言もみられる。男字女字の説明などは、著者は悪気はないし差別意識もないだろうが、人によっては不快と感ずるだろう表現もあった。
話し言葉で書いてあるので冗長であったり苛苛する人もいるだろう(自分とか)。
しかし、それでも日本語を母国語とする人へ。肯定も否定もひっくるめて一度は読んでおくべき書だと思う。
言葉こそ、性別、世代、人種をまたごうとする人間の平等(幻想)をはたす手段なのだから。