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颯爽と殺伐の同居『君と僕のアシアト』よしづきくみち短編集 このエントリーをはてなブックマークに追加

よしづきくみち短編集君と僕のアシアト (ジャンプコミックスデラックス) よしづきくみち魔法遣いに大切なことで知られるよしづきくみちの短編集、第2弾(全7話)。本書の後書(あとがき)にある通り、単行本で発売されている作品は、はじまりのはこ、そして君と僕のアシアトを除いて連名(原作付)なのです。連名作(原作付)が悪い、と云うのではありません。僕自身魔法遣いに大切なことは大好きですし、サントラまで購入した程です。しかし、この綺麗(萌え?)な絵柄ゆえによしづきくみち自身が絵だけの評価を受けているのが、少し悲しいです。

本書の題名にもなっている君と僕のアシアトから始まる短編。この話からしてぎょっとさせられます。
既に亡くなっている彼女の本意を知りたいと、タイムトラベルを依頼する主人公(男性)。そこで主人公が惚れた当時の彼女と出会い、主人公が知らなかった事実が明かされます。この謎、というか彼女が主人公に語れなかった事、これがこの爽やかな絵柄に反してきつい。そしてそこからとった主人公の行動もまたきつい。僕自身共感してしまっただけに、きつい。一往、悲しいだけではなくて、知っていた表、知らなかった裏、それがどうつながり、どういう思いがあったのか、このまとめかたや颯爽と描かれている点が著者よしづきくみちの妙。

『about me』という話なんて、なんでそこで笑顔を見せられるのか不思議でなりません。大人も子供も、歩んだ道と望んだ結果、これが重なり合致するなんて稀なのです。それを突きつけるわけでもなく、しかしフィクションとしての幻想に逃げるのも許されない。この落ちを読んで、よしづきくみちは絵柄に反して結構を持っている気がしましたw

最小頁の『け・ん・か』は萌え話。一般的にはよしづきくみちはこういう認識なのかな。僕自身そうだったので。良いよね幼馴染

収録最終話の『なつみ』ですが、初出が同人誌と知って納得。これ商業で出せないよな。この話が一番怖かった。素直に正直に言って怖かった。僕自身は経験ありませんが、男の子の気持ちが解るし、平然としている女の子も、それはどちらも本人にとっては当然であり、だからやりきれない。テーマとしては重いのに、それを軽くさせず、それでいて爽やかに描けるよしづきくみちは凄いと思う。これは絵柄だけでなく、いかに主題を真摯に扱っているか、という姿勢だと思う。
僕だったら、もっと過剰反応して彼女を傷つけるだろう。とても大事な人だからこそ、驚くし怖いし迷うと思う。
ヌレスケ姿の方がよっぽど気になったぜ…!!
こんな事を言う男の子がどうして格好いいんだろ。そして、対する女の子の笑顔。よしづきくみちの主題って、出会いとか前向きな要素ではなくて、別れ喪失なんだと思う。
連名作品(原作付)の場合には爽やかさが表れる、それだけでも十分魅力だとは思う。けれど、上記のような別れ喪失を真摯に描いている作品だからこそ、描ける作者だからこそ、キャラクタの笑顔が眩しい
失った悲しみと踏み越える喜び、颯爽と殺伐が同居した作品。そこ面食いのあなた、絵柄に惹かれてよしづきくみちの深みに嵌ってみませんか。
感想(考察) [ 2008/08/06 07:06 ]

森博嗣・原作、浅田寅ヲ・作画、幻冬舎・文庫版『すべてがFになる』を購入 このエントリーをはてなブックマークに追加

すべてがFになる (幻冬舎コミックス漫画文庫 あ 1-1) (文庫) 森博嗣 浅田寅ヲ原作よりも漫画を先に知ってから嵌った作品です。原作のSMシリーズは全部揃えましたし、すっかり浅田寅ヲ信者でして、漫画版を既に持っているのに書き下ろしの表紙に惹かれて購入してしまいました。
ちなみに、この浅田寅ヲ犀川創平に惚れてアンダーリムの眼鏡をかけるようになりましたw
冷たい密室と博士たちは表紙つかいまわしていたので保留。けれど、文庫化されたって事は愈愈笑わない数学者も漫画化かされるのか?
「先生……、現実って何でしょう?」萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬簡にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」犀川はすぐ答えた。「普段はそんなもの存在しない」
今更ながらミステリに限らずラノヴェブームの先駆けだったのかな。
感想(考察) [ 2008/08/06 05:18 ]

日本語を母国語とする者はこれを読め『漢字と日本人』 このエントリーをはてなブックマークに追加

凄い。この本は凄い。色色と書いてまとめたかったけど、まだ自分で消化しきれてない。
今迄、国語国字問題に関する本は色色と出ていて、その中で有名な福田恒存の私の国語教室を読んだ時、当用漢字現代かなづかいが力技であると知り多くを学べたが、反面、歴史的仮名遣もまた不明な点が浮き彫りになり、結局現代人の自分には純粋な知識と云う以外の意味がつかめなかった。
しかし、この本は違う。先ずカテーの問題と表し、日本人は音(声)を聞いただけでカテーの問題假定(仮定)の問題家庭の問題かを文脈から瞬時に判断し、それを日常的に行えているのは何故か、それは漢字が日本に入って爾来、文字(漢字)が先に立つ言語文化だから、と示す。
無論、先に挙げた福田恒存の私の国語教室でも表記法は音にではなく、語に隨ふべしと記してあったし、本書漢字と日本人に限った表現、考察ではない。
本書の優れたるは、英語と漢語(漢字)と日本語の類似点と解離性を、文法と音節の説明から入り、発言と文字のどちらを優位とするかの文化(指向)の違いを説き、これが非常に解り易い。かつ面白い。
というのも言語の違いを明らかにすることで英語の指向(概念)をも知り、英語の理解にも繋がるのだ(なお日本語と英語の指向、概念の違いは日本人の英語が非常に解り易く勉強になる)。

また、常用漢字表などの表現に準じつつ、何故仮定の問題、ではなく假定の問題と一部従わずに表外漢字をつかうのか、その説明も至極理にかなっている。
部首などに従い、『假』は暇,瑕などと同じで『カ』の意味と音節を持つ。
『仮』は版,板などと同じで『ハン』の意味と音節を持つ。
つまり、假を仮とすると漢字の体系的な読み(音節)意味を失い、熟語として本末顛倒だと云うのだ。
目から鱗。

日本は漢語(漢字=文字)を手に入れた。
その代償に日本語(大和言葉,和語)の発展を意図せずに切り捨てた。言葉=概念であり、つまり外来の概念がそのまま日本の概念として広まり、結果「十一月の三日は祝日で、ちょうど日曜日です」と同じ文字でありながらカ,ジツ,ニチ,ビと異なる読み(音節)を無意識にこなせる器用さと曖昧な国語(概念)を手に入れた。
そして、それが国語国字問題に連なり、音と意の両方が曖昧な言葉となり、漢字の表意,表音からも外れ、和語(大和言葉)の発展も望めぬ、理論として誤った教育(国語)となった。

著者は漢字(現在の国語)を愛するがゆえに辛辣だ。
これ程の事を書きながら、著者である高島俊男は出来るだけ漢字はつかわないほうが良いと云う。
それは、常用漢字のように漢字の制限は不当であり漢字をつかうならば表音と表意に従い旧字もあわせてつかうべきだ。
しかし反面、大和言葉には漢字を用いずかなをつかうべき、例えば使うではなくつかうと書く。
自尊心や劣等感からの、あるいは限られた知的階級の漢字崇拝は愚かであり、同様に欧米を至上とし過去を含めた日本の歴史(文化)を切り捨てる漢字撤廃も愚かと著者は説く。
著者は終章 やっかいな重荷でこう記す。
漢字は、日本語にとってやっかいな重荷である。それも、からだに癒着してしまった重荷である。もともと日本語の体質にあわないのだから、いつまでたってもしっくりしない。しかし、この重荷を切除すれば日本語は幼児化する。へたをすれば死ぬ。この、からだに癒着した重荷は、日本語に害をなすこと多かったが、しかし日本語は、これなしにはやってゆけないこともたしかである。腐れ縁である。――この「腐れ縁」ということばは、「くされ」が和語、「縁」が漢語で、これがくっついて一語になっている。日本語全体がちょうどこの「腐れ縁」ということばのように、和語と漢語の混合でできていて、その関係はまさしく「腐れ縁」なのである。日本語は、畸形のまま生きてゆくよりほか生存の方法はない、というのがわたしの考えである。
自分自身、劣等感から漢字崇拝のきらいがある。けれど、本書を読んで旧字の勉強をもっとはげもうと思う反面、かなの扱いを考えもっと多用しようと思った。
本書はやや差別的な文言もみられる。男字女字の説明などは、著者は悪気はないし差別意識もないだろうが、人によっては不快と感ずるだろう表現もあった。話し言葉で書いてあるので冗長であったり苛苛する人もいるだろう(自分とか)。
しかし、それでも日本語を母国語とする人へ。肯定も否定もひっくるめて一度は読んでおくべき書だと思う。
言葉こそ、性別、世代、人種をまたごうとする人間の平等(幻想)をはたす手段なのだから。
書籍 [ 2008/08/05 01:48 ]

京極堂・中禅寺秋彦と千鶴子夫婦に思う このエントリーをはてなブックマークに追加

同人誌って無かろうか。きっと原作(オリジナル)は作品の魅力を保つための含蓄として描かないと思うけれど、例えば二人の出会いは戦前,戦中,戦後? 千鶴子は京極堂の仕事(憑物落とし)を理解しているのか、あるいは触れずにいるのか。どうやって口説いたのか? 憑物が原因なのか、それとも無関係だからこそ夫婦なりえたのか? 敦子の事情とは? 色色と妄想しません?w
関口本島のような一人称で――
どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いている坂道を登り詰めたところが目指す京極堂である。梅雨も明けようかという夏の陽射しは、あまり清清しいとは言い難い。火事と喧嘩は江戸の華、などと云うが京都もいっそ燃えてしまえと思いたくなる暑さである。知人に聞いた話だと東京よりも夏は暑く冬は寒いらしい。別に張り合っているわけでもなく、いずれ場所がどこであっても暑いのは同じ、求めるものも皆同じ、甘味ではなかろうか。そんなわけで私は汗を拭いながら京極堂を目指している。京極堂は菓子司だ。
といった感じで、実は千鶴子目当てで京極堂へ通っている男性の一人称で、千鶴子と秋彦の当時を描写する、なんてそれこそオリジナルでもありそうなものなのに無い-"-
あるいは京極堂という表現で、実は京都の京極堂と云う叙述トリックとかね。
誰でも良いから書いてみませんかね?
あるいは既存でしたら情報求ム。
感想(考察) [ 2008/08/03 03:52 ]