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江戸の悪霊祓い師 このエントリーをはてなブックマークに追加

新編 江戸の悪霊祓い師 (ちくま学芸文庫) (文庫) 高田衛1991年-刊行。解説・小松和彦。
祐天浄土宗総本山増上寺36世。
死霊解脱物語聞書-元禄3年(1690年)。
古今犬著聞集

浄土宗-総本山-知恩院(京都)
浄土宗-総本山-増上寺-「大門(だいもん)」は増上寺の総門のを指す。

下総国(しもうさのくに)飯沼の弘経寺
寛文12年(1672年)正月から4月(旧暦?)

河川=水神(土着宗教)。
女権。

憑霊=貨幣制度の利鈍、外来宗教(仏教)と土着宗教(神道)との狭間発生した軋轢(葛藤)が招いた現象。

Tags : 江戸の悪霊祓い師 京極夏彦 小松和彦 高田衛

感想(考察) [ 2008/07/03 21:37 ]

ギャルのパンティ、乙女のパンティ、スカートの下の劇場。 このエントリーをはてなブックマークに追加

以下の記事を見かけ、先日読み終えたスカートの下の劇場に共通する面白い命題だったので、幾つか拙い記述を残します。

ギャルゲと乙女ゲーのパッケージ絵の違いについて

↑によると、ギャルゲ乙女ゲーの傾向として、ギャルゲはプレイヤの代替である主人公(男性)の描画がなく攻略対象となる女性キャラクタのみ。対して乙女ゲーは攻略対象の男性キャラクタと共に主人公(女性)も描画されている、のだそう。
これを読んだ時、前述のスカートの下の劇場にてこんな記述があったのを思い出した。
--女にとっての性的オブジェは自己の身体--
具体的な1つのイメージを思い浮かべますと、鏡ばりの部屋の中に女性が閉じ込められているというシーンを想定してみて下さい。鏡の面になっているところが全部男性の視線だとします。そうすると、部屋自体が男性だから、ここで女性の性的ファンタジーは男性の視線を媒介にしています。逆に、鏡ばりの部屋の中に男を入れておいて、女性の視線から見るというような逆転の構図が成り立つかというと、そういう形での男性の性的客体化は女性の場合には起きないようです。女性にとっての性的客体というのは、対象の身体ではなくて、自己身体でしかないのです。--(中略)--中にいるのは女という、最初の構図は変わらない。ただ今度は、ぱちっと目を開けて見ると、相手ではなく鏡の中に自分が映っているというわけです。女性の性的なファンタジーは対象にではなくて、対象化された自己像にあります。女はそれに興奮するのです。(148-149頁)
なんとなく感じてはいたことだけれど、こうして言葉にされると声をあげずにはいられない「なるほど!!」
スカートの下の劇場が記す男女の違いに、個性を排除した傾向の話に限るが、以下であると言える。

  • 男性=フェティシズム
  • 女性=ナルシシズム

男性は、今では一部で属性とも表現されているフェティッシュ(対象)、服装や身体の部位など、個性とは別の共通項(属性)に興奮する。対象は基本的に自分以外の人物(女性)。
女性は、上記の属性を男性に認めながらも、自己像に対する男性を見て反応する。あるいは、上記の引用の通り、自ら自己像に興奮する。
男は見て興奮し、女は見られて興奮する
この違いがいったい何によるのかは解らない。
きっと、雄雌にまで遡らなければいけない気がする。
繰り返すが、人による、と云うのは前提で、個性を排除した傾向の話。

蛇足だが、僕はひろせみほポン貴花田二宮ひかる日坂水柯などの男性向けの女性作家エロ作品が好きです。好きな作品が結果的に女性作家だった、と云うだけなんだけれど、作風にはやはり抽象的で共通する情感があるように思う。
局部や部位ではなくて、姿勢や表情を強調すると云うか、これを書きながら自分でもよく解っていませんがA^^;
まあ、僕は女心の解らない女脳ですから、特に落ちも結論もありません。
異論反論は多々あると思います。解答は得られない命題だとも思います。
だからこそ、喜びや楽しみも見出せるわけですが。

※追記
これうpした後にこんな記事を見つけました。
男女論を扱うコピペブログの記事のまとめ
【鯛男】お前ら何フェチ?

Tags : スカートの下の劇場 パンティ 上野千鶴子 ジェンダー

書籍 [ 2008/07/03 16:01 ]

学問と娯楽の狭間で『妖怪大談義』 このエントリーをはてなブックマークに追加

対談集 妖怪大談義 (角川文庫 き 26-50 怪BOOKS) (文庫) 京極夏彦2005年に発売された単行本の文庫化。単行本が未読だったのと、荒井良の表紙に惹かれて購入。対談者は以下──水木しげる、養老孟司、中沢新一、夢枕獏、アダム・カバット、宮部みゆき、山田野理夫、大塚英志、手塚眞、高田衛、保阪正康、唐沢なおき、小松和彦、西山克、荒俣宏、尾上菊之助──合計16名。最後の尾上菊之助は文庫版特別収録とのこと。個人的に面白かったのは、山田野理夫、大塚英志、高田衛、小松和彦。学問と娯楽の対立、または共有に関する話題が興味深かった。
山田──外国の幽霊ってあんまりつきあいないから、つまんない。日本は面白い。これはつまり貧しさだな。
京極──貧しさが心の豊かさにつながっている、ということでしょうか。
山田──女の役者が禁止されて女形が出てきたっていうのと同じだよ。
寛永6年(1629年)の禁止令の是非はともかく、制限があるからこその精練はあると思います。
大塚英志とは、学問的な要素を娯楽に組み入れている、ある意味では同系統の作家として民俗学や文学を語っていて楽しめた。
京極夏彦のデビュウ作である姑獲鳥の夏の骨子のひとつである憑霊信仰論の著者、小松和彦。大塚英志も語っていた、ここ20年辺りの民俗学の停滞を憂いていた。それを象徴する文言が。
小松──その昔、日本民俗学会には会長がいた。柳田です。ところが、柳田が引いた後、誰も会長にならなかった。なれる人がいなかった。
京極──会長不在?
小松──今でも不在です。会長の代行の代表理事っていうのはある。
京極──永久欠番ですか(笑)
小松──お笑いになるかもしれませんが、本当なんですよ。私から見ればそうなった段階でもう滅びの道を歩き始めていたんだろうな、と思いますね。
僕は素人なので民俗学の遍歴は全く存じませんが、柳田國男の象徴性は認識しています。素人に対する影響力なども、実践する者にとっては、死活問題なのでしょうね。また、読者のひとりとして「そうなんだよ!!」って思わず声をあげてしまったのが以下。
小松──京極さんのこの10年は?
京極──僕自身はほとんど変わっていません。ただ、読者がどんどん厳密さを要求するようになってきている気はします。物語性と同じだけの情報量が求められている。先程論文も内容だけじゃなくて文章も良くなきゃいけないというお話がありましたが、その逆ですか。フィクションとしての質の高さのみならず、いや、のみならずというか、知的な面での質がエンターテインメントの条件に組み込まれている。今に始まったことではないと思いますが、知的好奇心も満たして欲しいと強く要求されている気がします。これは僕のような小説家に求めることじゃなくて、学者さんに求めることで(笑)。だから学問の分野の人にもっと発信して欲しいと僕は思うんですよ。
小松──がんばらないといけない。でも、小説を書くようにはいかない。だって学問は、手続きやなんやでそうは簡単に発信できない。地道な積み重ねが要りますから。
京極──ええ、その点は十分承知しています。でもですね、その研究が今どこまで進んでいるのか、結論は出ていなくてもいいから知りたいというのは正直なところですよ。例えばロボット工学なんかはいいわけですよ、2本足で歩きましたとか、跳ねましたとか、ニュースで放送するでしょう。でも、人文系は全然聞こえてこない、そうした現状に対する不満っていうのがエンターテインメントに跳ね返ってきているように思います。
そうだよ、そうなんだよ!!
自分では届かない専門と云う海原を、例え泳げなくとも砂浜から眺めたいんだよ。イチローにはなれなくとも、イチローの一挙手一投足に興奮するんだよ!!
文学(小説)は幻想に過ぎないけれど、その幻想に説得力を持たせる要素として専門は最適なんだ、と思う。そりゃ興味があれば論文でも何でも読むけれど、そもそも契機が得られないんだよね。だから、漫画なども含めた文学が専門を扱うのは素晴らしいと思うし、また、専門(学問)もまた表しかたを考えても良いと思う。
とは、素人故の身勝手さ。それは自覚しているんだけどね。
兎に角、そういう素人が知らない面が垣間見える対談集。
そういえば、日本で最初に妖怪と云う言葉が既述されているのは続日本紀なんだそうだ。
憶えても何の役にもたたないけれど、知的で素敵だ。
まさしく本書を象徴していると思う、妖怪

Tags : 水木しげる 養老孟司 夢枕獏 宮部みゆき 大塚英志 手塚眞 高田衛 小松和彦 荒俣宏 京極夏彦

書籍 [ 2008/07/03 00:55 ]